「ラストエンペラーの姪」はなぜ“青森県出身の青年”とピストル心中を遂げたのか…実妹が明かしていた“天国で結ぶ恋”の知られざる真相
「相手の方に迫られ、怖い思いをしていた」
常に姉に連れ添い、生涯にわたって姉夫婦の相談役となった浩さんの実妹・町田幹子(ことこ)さんがこう述懐する。 「あれは無理心中でした。当時、級友や関係者に数多く話を伺いましたが、慧生は相手の方に迫られ、怖い思いをしていたことがわかりました。死ぬ1カ月前、大学の文化祭に一緒に行った時、私の手を握ったまま一切離れなかったほどです。相手の方はピストルまで隠し持っていて、慧生にお付きあいを断られ、坊主頭になったり、鎌倉に座禅を組みに行ったことがあったらしいのです……」 嫮生さんもこう言う。 「姉は『級友』と天城山に向かう時、タクシーの運転手に最終のバスの時刻を聞いていたそうですし、遺体の状況からしても後ろから撃たれていたのではないかということでした。別の場所に薬莢(やっきょう)が落ちていたという点から見ても、ひょっとしたらそこで姉は殺されて『心中現場』に運ばれたという可能性もあると思うんです……」 〈天国で結ぶ恋〉とはあまりにかけ離れたものだったのである。
父と16年ぶりの対面は遺骨で
10余年の収容所生活を経て溥傑氏は昭和36年、中国の広東で浩さん、嫮生さん母子に16年ぶりに対面する。が、慧生さんだけは遺骨での対面となった。 浩さんが生前自ら著した『流転の王妃の昭和史』(新潮文庫)はその時の様子を、 〈「お父さま……」 私は一言も口がきけませんでした。夫も私を見上げたま無言でした。…… 膝の上で大事に抱えてきた慧生の遺骨は、生前あれほど恋しがっていた父の腕にしっかりいだかれました。 「申し訳ございません」 私は言いかけて、喉をつまらせてしまいました。夫も目をしばたかせて、何度も頷いていました。……〉 と記している。 嫮生さんは日本へ帰国し、溥傑、浩夫妻はそのまま中国に残った。 その浩さんも文化大革命中に投与された薬がもとで腎臓を患い、やがて人工透析を受けるようになる。昭和62年6月20日、北京で波乱の生涯を閉じた。
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