面接にも広告にも…「人生は物語」に感じる違和感の正体!「ナラティブ」過剰の問題
「誰だって、自分の人生という物語の主人公だ。」 だから、清涼飲料水広告の少女はいつも走っているし、面接では自分の人生を物語として流暢に語らねばならないし、インスタの投稿は「統一感」を大事にせねばならない。 【写真】過剰すぎる「エモい」青春 けれども、本当にそうなのだろうか。 私の人生は、物語なのだろうか。物語「でしかない」のだろうか。 物語でない私の人生には、価値がないのだろうか。 現代社会を覆い尽くす、過剰な「物語」に違和感を感じるあなたへ。 美学者・難波優輝氏による【新連載】「物語批判の哲学」が幕を開ける––––。 【連載】「物語批判の哲学」第1回:物語化のニーズと危うさ・前篇
「物語」を愛しながら、「物語」に抵抗する
あらゆるところで「物語」がもてはやされている。 私はそれが不愉快である。物語を愛しているがゆえに。 たとえば、これまでの人生を理解するナラティブ(物語)が不適応を起こしているために心身の不調を訴える人に対して、異なる解釈を提示する「ナラティブ・セラピー」(国重&横山 2020; 斎藤 2019)。 SF的なストーリーをつくることで発想を飛ばし、未来のプロダクトについて、アイデアを膨らませる「SFプロトタイピング」(藤本&宮本&関根 2021; 宮本&難波&大澤 2021; 樋口 2021; 宮本 2023)。 自分を物語を生きる主人公に見立てて生きることで、よりよい人生を生きる「物語思考」(けんすう 2023)。 さらには、近年盛り上がりをみせている人生の意味の哲学では、人生の意味とは何か、という問いに対して、物語的に生きることで見出されるものだとする「物語説」が存在感をもっている(マッキンタイア 1993; Velleman 1991; Schechtman 2007)。 あるいはもっと身近な話をしよう。
ありふれすぎた「青春」のイメージ
ポカリのCMを眺めていると、いつも若く健康で元気な学生が(とりわけ女性の学生が)走っている。 既にパブリックに行き渡った「青春」のイメージ––––光る汗、友情、焦燥感、夏––––をこれでもかと描写する。ドラマティックで感動的な話が語られ、人々は「エモい」と称賛する。 自分の好きなアイドルや配信者を応援する推し活では、推しが成功していく成功譚を眺めることが喜びになり、そのためにお金を費やすことは美徳のように語られている。 就職活動の面接では、学生時代に力を入れたガクチカが尋ねられ、これまでの来し方を「自己分析」させられ、挫折経験とそこからの回復をドラマティックに語ることを要求されたりする。 私は端的にこう思う。何かがおかしい、と。 人生を解釈しすぎるから心身に不調が訪れるのではないか、と思うし、未来を描く際にはストーリーではなく、人文的な知識をしっかりと勉強すべきだと思うし、人生の意味を感じるのに物語を通す必要など感じない。 なぜ青春はいつもドラマティックなのか。もっと穏やかな青春が私にとっての宝物であるし、感動ポルノめいた話には嫌悪を感じ、推し活で推されるアイドルたちが、期待される物語を生きようとする様に心苦しくなり、就職活動に勤しむ知人たちが物語を強要されることに憤りさえ覚える。