面接にも広告にも…「人生は物語」に感じる違和感の正体!「ナラティブ」過剰の問題
知性への憧れ生んだ『指輪物語』の名言
私はフィクショナルな物語を愛している。 とりわけ、SFやファンタジーに、私はいくどとなくセンス・オブ・ワンダーを感じ、人間としての理想を垣間見たりした。 もっともお気に入りの物語は『指輪物語』で、そこには様々な知性のひらめきがあった。自分の叔父を殺しかけた悪人としか言いようないゴクリというゴブリンに「死んだっていい」と憤慨しながら軽々しく吐き捨てるホビット族の主人公フロドを制して、魔法使いのガンダルフはこう諭す。 「死んだっていいとな!たぶんそうかもしれぬ。生きている者の多数は、死んだっていいやつじゃ。そして死ぬる者の中には生きていてほしい者がおる。あんたは死者に命を与えられるか?もしできないのなら、そうせっかちに死の判定を下すものではない」(トールキン 1972, 109) 悪は殺すべき。正義は果たされるべき。 燃え上がる義憤の情動に一呼吸を入れようとする賢者の言葉。 その思慮の深さは、虚構を超えて本物の知性の理想像の一片を中高生の私に印象付けた。その後長じて、私はフィクショナルな物語を書いてお金をもらったり、フィクショナルな物語の可能性を研究とビジネスの両面から考え実践したりしてきた(cf. Namba et al. 2023)。 そのときもいつも脳裏には私が愛してきた物語が、善と悪とが複雑な陰影を形作る世界が、『指輪物語』の魔法使いの言葉が響いていた。 だが、最近、私は物語の力を疑うようになってきた。
「人生そのものは物語ではない」
物語には確かに力がある。だが、その力はもっぱら悪い方に作用しているのではないかと感じ始めた。先に述べたようなさまざまな「物語」の盛り上がりを眺めていて、何かがおかしいと感じた。 人々があまりにも物語に没入しているのではないか、あまりにも物語の力を信じすぎているのではないか、と。 同じように、物語の悪さを指摘する議論は最近いくつか現れているが、どれも結局のところ、物語をうまく乗りこなすススメを言って終わる(ゴッドシャル 2019)。世界は物語に満ちているのだからそこから逃れることはできない。せめてうまくやれ、と。 私はそうは思わない。 世界は物語だけでできているわけではない。人生そのものは物語ではないし、物語的に生きることがつねに善いわけでもなく、美しいわけでもない。私にとって、人生は、様々なことが巻き起こり、出会いと別れがあり、楽しい会話や鮮やかな瞬間があるが、それらを、物語の形で語りたいとは特別思わない。 物語的ではない生を私は生きられている。 人々はあまりにも強い物語の引力に引き寄せられて、もはや物語に支配されつつあるのではないか、と私は危惧し始めた。 だから、私はこれから、物語に対抗したいと思う。 何かしらの物語が私たちの幸福を奪うのだとしたら、もはやそんな物語は廃棄されるべきだろう。 私はよき物語を愛している。それゆえ、物語を批判したいと思う。 愛するということは、支配されるわけでもなく、支配するわけでもなく、独特のバランスのなかで惹かれ合い、反発し合うことなのだと考えている。 私は、物語を愛し続けるために、物語と私たちの適切な関係を築き直すための概念と思考を作りあげていくつもりだ。 物語批判の哲学を始めよう。 >>物語のニーズと危うさについてさらに知りたい方は、つづく「流行中の「就活対策」実は「逆効果」な理由…!「就活ウケ」する「作り話」の気持ち悪さ」もぜひお読みください。
難波 優輝(美学者・会社員)