「日本」という国はどこへいくのか…明治時代、この国の頭脳が取り憑かれた「世界的名著」
日本の哲学者も熱に浮かされた
一八八三年のマルクス(Karl Marx, 1818-1883)の死以後、マルクス主義の哲学が語られるときに典拠とされてきたのは、多くの場合『反デューリング論』(一八七八年)や『フォイエルバッハ論』(一八八八年)などエンゲルス(Friedrich Engels, 1820-1895)の著作であった。マルクス自身の哲学的な著作が遺稿のなかから公にされたのは、ちょうど一九二〇年代から三〇年代にかけての時期であった。エンゲルスとの共著『ドイツ・イデオロギー』の第一巻第一章「フォイエルバッハ」が刊行されたのは一九二六年であり、『経済学・哲学草稿』がはじめて公にされたのは一九三二年のことであった。マルクス自身の思想を示すものとして、その公開は大きな注目を集めた。 日本においてマルクス主義の哲学への関心が高まりを見せたのも、ちょうどこの時期においてであった。その中心にいたのが三木清であった。三木はヨーロッパ留学から帰国したのち、第三高等学校の講師を務めるかたわら、経済学部教授であった河上肇を中心として開かれていた研究会(マルクスの『経済学批判』などをテクストにしたので「経済学批判会」と呼ばれた)に参加したりしたが、この頃からフォイエルバッハの思想や唯物史観の研究に着手したと考えられる。三木は一九二七年に法政大学教授に就任し東京に移ったが、それ以後、矢継ぎ早にその研究の成果を、「人間学のマルクス的形態」や「マルクス主義と唯物論」、「プラグマチズムとマルキシズムの哲学」などの論文を通して発表し、論壇の寵児になっていった。 三木のこのようなマルクス主義の哲学的な基礎づけの試みは、彼の周りにいた人々に大きな影響を及ぼした。その影響をもっとも強く受けた一人が戸坂潤であった。京都時代にすでに唯物論の研究を始めていたが、三木清が一九三〇年に当時非合法化されていた日本共産党への資金援助容疑で検挙され、法政大学教授の職を辞した翌年に法政大学の講師となり、活動の場を東京に移した。そこで岡邦雄や三枝博音らと唯物論研究会を組織し、『唯物論研究』を発刊して、わが国における唯物論研究を中心的に担い、同時に多彩な評論活動を展開していった。 さらに連載記事〈日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。
藤田 正勝