文献史料が沈黙する「空白の4世紀」とは何か? 古代日本の謎の100年が考古学で明らかに!?
■卑弥呼の時代の後に到来した「空白の100年」の謎 倭国の女王卑弥呼が魏の皇帝に朝貢し、銅鏡や「親魏倭王」の印綬を与えられた。邪馬台国の位置については古くから大和説と九州説とがあって、『魏志』倭人伝の内容からだけではどちらとも言い難い。ただ卑弥呼が倭国王として君臨していた3世紀前半頃、大和盆地の東南部の三輪山の麓一帯に、当時列島最大規模の大集落である纏向遺跡が営まれ、またそこには3世紀半ば頃に全長約280mの当時最大の巨大前方後円墳が出現した。それが箸墓古墳であり、これに続く世代の巨大古墳、西殿塚古墳もその近辺に造られた。 筆者を含め前者を卑弥呼の墓、後者を壱与(いよ)の墓に当てる研究者が多い。 以後、約100年にわたり中国史書から倭国の情報は途切れてしまう。次に見える年号は、百済王から倭王に贈られた七枝刀に刻まれた銘文にみえる泰和4年(369)である。この間ほぼ100年。だから一般には「空白の4世紀」とはいうけれども、より正確には空白なのは267年頃から369年までの約100年間なのである。 この間、文献は沈黙するが、古墳など考古資料は国家形成の動きを雄弁に語ってくれている。箸墓、西殿塚のあと、行燈山( 崇神天皇陵)古墳、渋谷向山(景行天皇陵)古墳と、オオヤマト古墳群に陸続と巨大前方後円墳が営まれる。これらの巨大古墳が3世紀半ばから約100年の間の大王の墓であることは間違いない。 ただこのオオヤマト古墳群が傑出していた時代は、4世紀の半ば頃になると、変化をきたし始める。現在の奈良市北東部に生まれた佐紀古墳群にこれに匹敵するほどの巨大古墳が造られるようになるのだ。五社神古墳、宝来山古墳などは大王墓級と評価されている。 ただ佐紀古墳群の全盛期も長くは続かなかった。4世紀の末には、さらに河内平野に巨大古墳が造られるようになる。古市古墳群と百舌鳥古墳群とである。 こうした巨大前方後円墳の移動をどう捉えるべきか。単なる墓域の移動であって、政治的な背景は乏しいとする近藤義郎氏や吉村武彦氏の見解もある。墓域が河内へ移ったあとも大王の宮は大和盆地を離れておらず、権力に異変があったわけではないという見解である。 一方で4世紀半ば過ぎと、4世紀末の2度にわたり、ヤマト政権に内乱が起きたという説がある。この説を唱える塚口義信氏によると、1度目に起きた三輪山の麓に本拠を置く政権から奈良盆地北部の佐紀の政権への交代の背景には、朝鮮諸国に対する外交政策をめぐる対立があったという。新しく勢力を握った佐紀政権は、百済との同盟をもとに積極的に半島へ乗り出し、鉄素材や大陸系の新しい文物を 一元的に獲得したとされる。 石上神宮に納められた七枝刀の銘文には、泰和4年(369)に百済王の世子(後継者である皇子)が倭王のためにこの優れた刀を送るといった内容が記されている。塚口氏は、この刀は、この直前に結ばれた百済と倭の軍事同盟の記念に贈られたと考えている。 同氏によると、その佐紀政権が4世紀末にまたも内部分裂した。政権内のもともと反主流派だった応神が、政権主流派を打倒して王位を奪い取ったというのである。その際、葛城氏、和邇氏、吉備氏の前身集団らが応神に味方したという。その結果、河内に巨大古墳が造られるようになる。 監修・文/水谷千秋 歴史人2024年11月号「「空白の4世紀」8つの謎に迫る!」より
歴史人編集部