「棟方志功が心の中に住んでいると、生き方が変わってくる」…小説『板上に咲く』で再注目、世界的版画家の魅力とは
志功の人生に存在した3つのハンデ
志功は生きている間に「世界のムナカタ」として名を成し、たくさんの仲間や家族に愛されながら一生を終えていく、恵まれたアーティストだった。しかし、そんな志功の人生はハンデだらけの中で始まった。 まず第一に目が悪かった。画家になりたい人が目が悪い、なんてことは画家にとって致命的なハンデである。第二に、今よりずっと画壇が権威を持っていた100年前に、その枠からはみ出たところで頑張っていた。何をどう頑張ったら世の中に出ていけるのかイメージできない世界である。 そして第三に、文化の中心地である東京から離れて片田舎の富山に疎開しなければならなかったことである。戦後の物のない時代の疎開者は、生活するだけでも肩身の狭い立ち位置である。どこを切り取ってもハンデだらけなのだがしかし、志功はそれら全部をプラスに転じて生きていく。 第一と第二のハンデの転じ方はここでは割愛し、福光の地からは第三の疎開のハンデについて語ろうか。
肌身で学んだ浄土真宗の「他力」
志功が疎開していた今から約80年前、福光近辺は浄土真宗が非常に盛んだった。どのお寺でも毎朝ご門徒たちが集まり読経を上げ、法話を楽しんだ。仏教には様々宗派がありそれぞれに特徴があるのだが、浄土真宗が肝にしているのは「他力」である。 この「他力」こそ、志功が生涯追い求めていたものだった。「他力」とは、他人のおもわくに身を委ねる、ということではない。空気を読むでも流されるでもない。「人間の意識」が及ぶ程度のそんなちっぽけなものではない、もっともっと大きな仏様の力に身を委ねる、ということである。 志功は福光で何人かの住職と親しくなり、そのお寺に毎日のように通い、住職と語り合い、朝には地元の人たちと一緒にお経を唱えた。浄土真宗の「他力」を、肌身で学んで染み込ませていったのが福光の疎開時代であった。 「私は自分の作品に責任を持っていません」と志功は言う。 「私の手足を、仏様が動かすんです。棟方志功というこんなちっぽけな一人の人間の力で仕事をしていません。もっともっと大きな力で仕事をしているんです。私は、自分の仕事に責任を持っていません」