有楽町駅近くで「中央区銀座西の住所を見かけた」と言ったら、友人はなぜか怪訝な顔を…<旧町名>でたどる中央区の歴史
「現在では使われなくなった地名=『旧町名』は、古い家屋の表札やビルなど様々なものの中に発見することができる」と語るのは、16年以上、全国の旧町名の名残りを探し、その記録をブログなどで発信している102so(じゅうにそう)さん。ご著書の『旧町名さがしてみました in東京』より、今回は東京・中央区の旧町名にまつわるエピソードを紹介していただきました。102soさんいわく、「中央区は元々2つの区が合併して誕生した」そうで――。 【写真】古いタバコ屋の店頭などに”あるある”赤い琺瑯看板 * * * * * * * ◆京橋區、日本橋區、日本橋區本町 <京橋區、日本橋區> 地図で中央区を見ると、日本橋の付くものとそうでないもの、町名が2種類に分かれているのがわかります。これは中央区が元々2つの区が合併して誕生した表れです。 日本橋が付く方が「日本橋區」、そうでない方が「京橋(きょうばし)區」。江戸・東京の中心だった両区が世界の中心を目指すため、中央区は誕生しました。 <日本橋區本町> 1590年8月1日に江戸入りした家康が最初に行ったのが架橋工事。8月26日に常盤橋が竣工すると、9月1日からは町割に着手します。その第1号がここ、本町(ほんちょう)なのです。 日本橋本町は江戸時代の始まりであり、令和のいまこの記事を書いている私にも、この記事を読んでいるあなたにも繋がる道の入口なのでしょう。
◆京橋區新佃島西町、日本橋兜町、京橋區月島通 <京橋區新佃島西町> 空襲被害をほぼ免れた月島・佃島エリアには戦前からの建築物が多々残っていますし、中央区以前の京橋區時代の旧町名も少々現存しています。 こちらは駄菓子などを扱う旧タバコ屋さん。大正生まれのご主人が切り盛りするお店兼住居のこの建物は中央区指定文化財です。 お話を伺うと、店内がドラマロケに使われたりプロの写真家が建物を撮らせてくれと訪ねてきたり等々、文化財ゆえのエピソードがたくさん。写真家が撮ったこの建物が載っている本も見せていただきました。 一方で、固定資産税が高く維持が大変ともおっしゃっていました。区が文化財指定で建物保存を推進するのはとても素晴らしいことなんだけど、とも。我々部外者にはいい部分しか見えませんが、当事者にとってはありがた迷惑な側面もあるんですね。 貴重なお話を聞かせていただきありがとうございました。今度また駄菓子買いに行きますね。 ……これが平成21年のお話。令和6年現在、もう駄菓子を買いに行くことはできません。 <日本橋兜町> 銀行発祥の地・兜町(かぶとちょう)に鎮座する兜神社には、平将門を供養するために埋められた伝説の兜があるとか。同じく町内にある東京証券取引所横の鎧橋には、源義家が投げ入れて暴風雨を治めた伝説の鎧が眠るとか。 ドラクエか何かでしょうか。渋沢栄一が金融恐慌を収めるために研いだ伝説の剣もあるかもしれません。 <京橋區月島通> えっ? 数がそんなにあっていいの? 2桁丁数に驚愕です。 丁目は概ね4・5丁目までが適当であると、幼少期より叩きこまれてきた我々住居表示世代にとって11丁目は完全に未知の領域。しかも月島通は12丁目まであったようです。 なお、京都に22丁目、北海道には42丁目があるそうですが、それはまた別のお話。
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