嘆願書「日本再建に極めて有用な青年」名前が書かれていたのは~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#52
初めての部隊勤務だった「最後の学徒兵」
そして、「有用な青年」の一人は、森口豁著「最後の学徒兵 BC級死刑囚・田口泰正の悲劇」(講談社1993年)の主人公、田口泰正少尉だ。 <嘆願書> 田口泰正君は東京水産講習所に在学中、1943年12月に徴集せられて海軍に入ったもので、海軍軍人としての教育課程を終わり、1944年12月海軍少尉候補生となり、1945年1月、石垣島警備隊勤務を命ぜられ、着任後約3ヶ月して本事件に遭遇したのであります 彼は、本事件当時は数え年で24才、小隊長の職にありましたが海軍に入ってようやく1年4ヶ月、しかも初めての部隊勤務であり、小隊長となってからも3ヶ月足らずであり、従って未だ軍務に通ぜず、小隊長とは名ばかりでありました 〈写真:死刑を宣告される田口泰正(米国立公文書館所蔵)〉 本事件発生の前日、空襲で彼の部下が3名戦死したばかりに、これを理由として指揮官から俘虜の1名を斬首することを命ぜられ、人を殺さねばならぬ羽目に陥ったことは、彼の生涯の不運であったと言わねばなりません 彼は田口氏の唯ひとりの子供であり、祖父母及び父母は北海道で再び彼と相見える日の無い不幸に傷心悲歎の極みにありまして、傍らで見るも痛ましい限りであります 〈写真:森口豁著「最後の学徒兵 BC級死刑囚・田口泰正の悲劇」(講談社1993年)〉 そして、「日本再建に有用な青年」のあと一人は、最初に米兵を斬首した幕田稔大尉だった。幕田大尉について書かれていたのはー。 (エピソード53に続く) *本エピソードは第52話です。
連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。 筆者:大村由紀子 RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。