嘆願書「日本再建に極めて有用な青年」名前が書かれていたのは~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#52
日本再建の為に極めて有用な青年
そして嘆願書の最後に、「日本再建のために極めて有用な青年」として、3人に言及する。 <嘆願書> 最後に本件被告人中、将来の日本再建の為に極めて有用な青年である、井上勝太郎君、幕田稔君、及び田口泰正君3人の為に言及する事を許して戴きます 〈写真:死刑を宣告される井上勝太郎(米国立公文書館所蔵)〉
やむを得ず任命された23歳の副長
最初は、副長の井上勝太郎大尉だ。 <嘆願書> 井上勝太郎君は本事件の発生した1945年4月には、数え年で23才の海軍大尉であり、石垣島警備隊の副長の職にありました 本来同隊の副長は海軍定員令の規定によれば、海軍中佐又は海軍少佐を以て充てられなければならなかったのですが、極端に人員の不足していた当時の日本海軍ではやむを得ず、そのような経験の浅い若い士官を、その職に任命しなければならなかったのであります 従って、当時、数え年で48才の、経験に富む海軍大佐の司令を補佐する事は、彼には重きに過ぎる任務であり、司令としても彼の補佐をそれほど期待してはいなかったと思われます 副長の任務は司令を補佐し、常に司令の希望を知り、この達成に務め、隊員をして隊内の規則を遵守させ、司令の命令を執行させることにありました
司令同様に重い刑は納得できかねる
<嘆願書> しかし、それは警備隊本来の任務に関する事に限られていた事はもちろんでありまして、俘虜の処刑の様な、警備隊の本来の任務でない事については、副長は積極的に司令を補佐する責任は無く、従って司令が彼に意見を求めず単独で決定した判断について、これを阻止しなかったからといって、その責任を司令と同様に重く問う事は、納得が出来かねるのであります 若年でこの事件に初めて遭遇した彼が、既に決定発表された司令の命令に従い、その方針を他の人へ通達した事は、仮に彼に責任があるとしても、それ程重いものとは考えられないのであります 彼の父は今次の戦争で1944年9月アドミラルティ諸島の海上において戦死し、病身である彼の母は、頼りにしていた長男の勝太郎君を今また失わんとし、他の2人の子供と共に親族の扶助を得て、ようやく生活を保ち、悲歎の底に沈みつつ、ひたすら神に祈り続けております これまで見てきた資料の中には、井上勝太郎副長が司令から意見を求められた場面もあり、一概に司令が単独で決定したことをそのまま遂行させられていたとは言えないと思うが、そもそも戦争末期、他に人員がいないという理由で、わずか23歳で副長の重責についたことが不運であったことは間違いない。 〈写真:石垣島警備隊司令 井上乙彦大佐(米国立公文書館所蔵)〉