嘆願書「日本再建に極めて有用な青年」名前が書かれていたのは~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#52
石垣島事件が起きた1945年4月15日、米軍の上陸が近いと予想される中、移送先もなく、捕らえられた米軍機搭乗員3人は即日、処刑された。 【写真で見る】死刑を宣告される 最後の学徒兵・田口泰正 事件に関わり死刑を宣告された石垣島警備隊の41人の中には、最年少19歳の二等水兵のほか20代の若者が多くいた。 元軍人がマッカーサー宛に提出した嘆願書の控えとみられる文書には、「将来の日本再建の為に極めて有用な青年」として特別に名前が書かれた若者数人がいた。いずれも将校だったその若者はー。
連日の空襲で連絡絶え
石垣島事件が起きたのは、1945年4月15日。元軍人が41人死刑の判決を受けて、マッカーサー宛てに書いた嘆願書には、当時の石垣島の状況についても書かれていた。 <嘆願書>(※現代風に読みやすく書き換えた箇所あり) 本事件が発生した当時における石垣島の戦況について私が聞いたところを申しますと、既に米軍は約半月前に沖縄島に上陸して激戦中であり、米軍の石垣島への上陸も近いことが予想されていました 石垣島は連日烈しい空襲を受けており、沖縄県にあった上級司令部とは既に連絡は絶え、島外からの軍需品、食糧等の補給も絶えたのみならず、島外との交通さえ著しく困難となっていました しかもマラリア病はひどく蔓延し、警備隊員の大部分はこれに罹って悩まされていました 〈写真:石垣島事件の法廷(米国立公文書館所蔵 森口豁氏提供)〉
間に合わせの部隊 すべての点で準備不足
<嘆願書> 元来この警備隊は1944年の終わりに編成された、間に合わせの部隊であり、すべての点で戦闘準備が出来ていなかったため、この隊では全員玉砕を覚悟しつつも上陸軍の撃墜準備に不眠不休の活動をしていたのであります この様な状況において、3名の俘虜を入手した指揮官はその処置について、台湾に送る事も困難であり、石垣島に無期限に抑留しておくことも、設備、警備員、給養等の関係で難しいと思い悩んだ挙句、遂に即日処分することに決したのであると聞いております 本事件の判決は以上の戦況を考慮に入れて為されるべきであり、その責任の程度は日本本土において行われた同種の事件に比べて、相当、軽減されて然るべきであると思われます 〈写真:石垣島を攻撃する米軍機のガンカメラ映像より(米国立公文書館所蔵 豊の国宇佐市塾提供)〉