アートもフェミニズムもわからない――「誰のもの?」という問いかけから紐解く。村上由鶴に聞く
「フェミニズムのゴールってどこですか?」
―『アートとフェミニズムは誰のもの?』が出版されてから1年以上経ちますが、どんな反応がありましたか。 村上:この本を書いてから、学生や読者から「フェミニズムのゴールをどのように思っているんですか」「どうしたら達成になるんですか」というようなことを聞かれることもあるんですよね。 そのときにいつも答えてるのは、たぶん、ゴールを設定するものじゃないというか――その過程、プロセスについてのことをフェミニズムと呼ぶんだろうな、と。反差別って言っていますが、「完全な平等」を実現させることって、ほぼ不可能に近いと思っていて……。 ―別の問題や差別が生まれてしまう? 村上:そうなんです。でも、それを目指すのが無駄だということではなく、いまより平等に近づけていくプロセス自体が重要です。例えばいま、「これが平等です」って言い張った瞬間に、見えてない、見ていない不平等が発生し、忘れられている人たちが出てきてしまう。そんな「平等」は嘘でしかないわけですよね。 だからつねに自己点検をするべきだし、つねに社会に差別的な構造がないか見逃さないようにする。そういう視点がとても大事だと思うんですよね。 ―「ゴールってどこですか」って聞いちゃう学生さんの気持ちも、よくわかります。 村上:ね。つねに同じ気持ちや熱量で続けていくのは、しんどいことだと思います。やっぱり、みんな暮らしがあるし感情があるから――もちろん何よりも人権が優先されると思いつつも――いい方向に進めるためには息切れしないこと、諦めてしまわないことが大事だなとも感じます。 ―自分の体力を使い果たすんじゃなくて、継続性を担保するということでしょうか。 村上:できることを続けていくことのほうが大事って、思ってますね。
そもそもフェミニズムとアートに向かうきっかけとは?
―そもそものお話になりますが、村上さんのフェミニズムに向かう原動力やきっかけって、どんなところにあるのでしょうか。 村上:何か決定的な出来事が一つあったわけではなくて。もともと中高生のときからカルチャー全般が好きでした。服が好きで、私服で通える高校に進学したんですよね。着こなしの参考にするために雑誌などを読みますよね。そうすると、例えばエマ・ワトソンやミランダ・ジェライといった人たちが、フラットな感じでフェミニズムについて語っている。だから、フェミニズムを何か「おしゃれなもの」として感じていました。 あとは……例えば、学生のときの飲み会で、男の子から「その服モテないよ」みたいなことを言われる。そうすると「いやいや、男にモテるために服を着てるわけじゃないから」って。それでも「少なからず女は男にモテるために服を着てるはずだ」とか言ってきて、もう堂々巡りになり、私は半分笑ってるけど半分怒っている、みたいな(笑)。それは、その男の子が悪いというより、社会の雰囲気のなかにそういう発想が根付いているということだと思うんです。男性だったらそうは言われないはずだろうとも感じました。そういう場面は印象深く覚えていて、女性であることを嫌だなと感じることもありました。 だからもともと、潜在的な興味はあったんだと思います。 ―大学の学部生時代には写真を学ばれていますね。アート、美術への興味がもともとあったのでしょうか? 村上:全然、そんなことはなくて。さっきも言ったように、高校時代は好きなことがありすぎるので、将来は雑誌編集者になったら、興味のあること全部に触れられると思っていて、雑誌を作る人になる勉強がしたいなとぼんやり考えていた。そういうノリで写真学科に入ったら、どうやら写真を撮る人を育てる学科だったらしいと、入ってから気付きまして(笑)。 入学してからも、私はフォトグラファーとして生きていく人生プランをまったく描けなかったし、持てなかった。じゃあ、どうしようと。そうすると、現代アートの写真作品が面白いと――写真を使った美術作品なら興味が持てると思って。例えばソフィ・カルの『尾行』という、探偵に自分を尾行させて、そこで撮られた写真を作品として発表したもの。アーティスト自身がシャッターを押していないのに、どうしてそのアーティストの作品になり得るのか? というような成り立ち方などが興味深くて、これについて考えてみたいと思ったんです。 ―それで、アートのことを知りたいと、大学院では美学を専攻されたんですね。 村上:大学4年生のとき、友達とニューヨークに旅行に行ったんです。そうして、現地の美術館で現代美術を見たんですよね。著書にも書いたとおり、そこでもジャクソン・ポロックの作品を見たのですが、感動ではなく、戸惑い、むしろ落胆やいらだちのような感情を覚えてしまって。わからなかったんです。そこで勉強が必要だと思えたし、「わかりたい」って強く思ったんです。 私は、美術作品を見て、まったく何も感じないというわけではないけど、何を感じているのかよくわからないと感じることが多かったんです。もやっとした何かがあって、一般的には「いいな、なんか感動した」で終わりにできる感覚なのかもしれないけれど、私にとってはそのモヤモヤが気持ち悪くてしょうがなくて、言語化したくなるんですよね。作品を見てすぐに「感動した!いいもの見た!」と納得できる人もいるでしょうが、私は残念ながらそうじゃなかった。自分のなかで言語化できてようやく落ち着くというところがあります。