アートもフェミニズムもわからない――「誰のもの?」という問いかけから紐解く。村上由鶴に聞く
読み解くための「ツール」であるフェミニズム
『アートとフェミニズムは誰のもの?』では、アートを読み解くために「ツールとしてのフェミニズム」を使うことを、度々強調している。さらに、例えばゴリラに扮してジェンダー不平等を問うゲリラ・ガールズや、蜘蛛に母と娘の姿を投影したルイーズ・ブルジョワら15人のアーティストの作品を、「性差別を批判的にとらえたアーティストたちによるフェミニズムの実践」として紹介した。 ―フェミニズムを「ツール」であると明示したうえで、アートを読み解かれています。 村上:フェミニズムやジェンダーの視点を使ってアートを読み解くということについては、フェミニズム批評やジェンダー批評と呼ばれる分野でテキストや研究がすでにあるので、参考にしながら書きました。 ただ、そういう文章って美術をよく知らないと難しくて、読み進めるのが苦しい人も多いと思うんです。私も大学生のときには、自分の本を読む技術や体力、知力が足りなくて、手に取っても読み進められなかったりしました。だから、高校生、大学生が読み通せるくらいの読みやすさで、私が尊敬する先人たちの文章のエッセンスのようなものが伝えられる本を書きたかった。 著書では、フェミニズムは「使うものだよ」と、ツール(手段)としてのあり方を強調しています。派閥になって肩を組むものや、同じハチマキを巻いて挑むようなものでもなくて、ペンとかフライパンとか、そういうものと同じものだよ、と。 ―「手段である、ツールである」と強調したことには、どんな思いがありましたか。 村上:フェミニズムが、何かを考えるときの気軽なツールになってほしいと思っています。 社会のなかにはジェンダーがあって、「男としての責任」みたいなものを背負っている人とか、結婚して子どもを産んで、それが一番の幸せであるという女性もいるだろうと思います。そうだったとしても「性差別は嫌だ」と思うことはあり得る。 性差別を嫌だと思って、デモのような活動だったり、アーティストとして作品をつくったり、フェミニズムに対していろんな活動をできる人がいるけれど、一方で、同じ志を持ちながらも子育てに多忙である、金銭的に苦しくてもう日々の仕事で手一杯という人もいる。親の支援を受けないと生活が苦しい若い人とか、生活する人間として、いろいろな人がいますよね。 いろんな属性のひとたちがいるなかで、例えば活動的なフェミニストの人を見て、「私はこの人にはなれない」と離れていってしまうのはもったいないと思うんです。 だから、美術館に行ったときや、テレビドラマや映画を見ているときにフェミニズムというツールを試しに使ってみてはどう? と提案するのが本書のねらいでした。そういう場面で誰もがツールとして使えるようになることが第1歩になるのではないか、と考えています。実際にデモ行進や情報発信ができなかったとしても、反差別の考え方、性差別はないほうがいいよねっていう考え方を共有して、それを身近なところで実践してみてほしいです。