《ブラジル》芸術フットボールを追い求めて=沢田啓明=第3回=スポーツライター冥利と気苦労=まさかのドタキャンもしばしば
歴史に輝くレジェンドたちを長時間独り占め
昨年、Jリーグが創設30周年を迎え、日本のスポーツ雑誌から「かつてJリーグで活躍したブラジル人選手に会って日本での思い出を聞き、併せて現況を伝えてほしい」という依頼を受けた。 去年から今年にかけて、リオ、サンパウロ州内などブラジル各地で13人を取材した。 南部ポルトアレグレでは、ブラジル代表のキャプテンとして1994年ワールドカップ(W杯)で優勝カップを掲げた闘将ドゥンガ(1995年から98年までジュビロ磐田)を彼の自宅でインタビューした。 彼はこわもてだが、実は気がやさしくて冗談好きだ。現在は、地元で恵まれない人々を支援する慈善団体を運営している。 サンパウロやリオでは「偏屈な男」というイメージが強いが、地元では「英雄」。空港からウーバーに乗ったところ、運転手は女性で、「フットボールは野蛮だから嫌い」と言っていた。ところが「これからドゥンガに会うんだ」と話したら、「あの人は例外」と笑顔を浮かべた。 少年時代、クラブの選手寮の窓が割れたままで冬は寒さに苦しみ、食事が貧しくていつも空腹でひもじい思いをしたこと、1990年W杯で優勝を期待されながらラウンド16で宿敵アルゼンチンの前に敗れ、その責任を一身に負わされて実に2年近くも代表へ招集されなかったが、「いつか必ずチャンスが来る」と信じてクラブで懸命にプレーしたことなどを、あの特大の目力で、手振り身振りを交えて話してくれた。 1991年から94年まで住友金属と鹿島アントラーズでプレーし、2002年から06年まで日本代表の監督を務めたジーコには、彼がリオで経営する選手育成クラブCFZの社長室で会った。 背は高くないが、71歳の今でも両足が象の足のように太い。少年時代にやせっぽちでプロ選手になれるかどうか危ぶまれたこと、フラメンゴが専任の栄養士を付けて身体をプロ仕様にしたこと、フラメンゴでの黄金時代、そして日本での話を聞いた。 個人的に最も興奮したのは、元ブラジル代表CFカレッカ(1993年から96年まで柏レイソル)とのサンパウロ州カンピーナスの自宅でのインタビューだ。 僕は1986年のW杯メキシコ大会を現地観戦したのだが、この大会でアルゼンチンの天才マラドーナと共に強く印象に残ったのが彼の力強いゴールだった。すでに64歳だが、スリムな体型を保っており、エレガント。自身のキャリアはもとより、柏に入団する前にナポリでマラドーナと一緒にプレーした頃のことなどを詳細に語ってくれた。 世界のフットボール史上に燦然と輝くレジェンドたちを長時間独り占めにして、かねてから疑問に思っていたことを根掘り葉掘り聞けるのは、スポーツライター冥利に尽きる。