「非体験者」という希望 : 高校生が発掘した旧日本陸軍・登戸研究所の史実―風船爆弾、偽札製造に毒物による人体実験
どの展示室も、当時の諜報戦について資料や言葉を尽くして丁寧に解説しているが、ある「宿命」を内包している。明治大学文学部教授の山田朗館長が、率直にこう語る。 「この資料館の弱点は、現物資料の少なさです。登戸研究所は『秘密戦』のための施設だったので、終戦とともに徹底的に証拠が燃やされ、破壊されている。そのため現物展示が限られてしまう。その部分をどう補うか、今も試行錯誤を続けています」
敗戦の朝の命令 「全テ証拠ヲ隠滅」
登戸研究所では、百数十人の技術将校の指揮のもとで1000人もの地域住民が集められ、研究補助として働いたが、所内のことは一切、他言無用を命じられていた。 1945年に入り、本土決戦を覚悟した日本陸軍はこの研究所を長野県や福井県などに分散移転。そして敗戦が確定的となった8月15日の朝、「陸軍省軍事課特殊研究処理要領」という通達が、研究所に届けられた。要領にはこうあった。 「敵二証拠ヲ得ラルル事ヲ不利トスル特殊研究ハ、全テ証拠ヲ隠滅スル如ク至急二処置ス」 研究所で行われてきた「特殊研究」の実態が敵軍に渡ることがないよう、一切の証拠を隠滅せよとの命令だ。所員は命令に従い、研究所で開発されたあらゆる兵器とそれらにまつわる機密文書を、大急ぎで処分した。 そして多くの所員たちが終戦後も固く口を閉ざしたまま、この世を去っていった。
登戸研究所に関する証言の「封印」が破られたのは、終戦から40年が過ぎた1980年代半ばのことだ。原動力となったのは、当時の高校生たちだ。 ことはまず100棟近い研究所の建物群が残されていた川崎市で起こった。 1988年、市民による歴史研究活動「川崎市中原平和学級」を率いていた元高校教師の渡辺賢二さん(80)が、新聞に告知を掲載のうえ研究所の「現地見学会」を何度か開催した。国会図書館や防衛庁(現防衛省)の戦史資料室を調べても資料を見つけられなかったため、「見学会を何度か開けば、当時を知る誰か来るかもしれない」と考えたという。 実際、5回目の見学会に参加した高齢の男性が、「研究所で働いていた」と明かした。男性は、誰にも話すなと命じられたので沈黙してきたが、研究所で働いていた頃の「青春時代」が消えてしまうと感じ、「仲間と再会しようと思い、名簿を作った」と打ち明けた。 名簿には90人ほどの名が並んでいた。「平和学級」に参加した高校生たちのアイデアで、この90人を対象に、川崎市教育委員会名義のアンケートを実施。すると20人あまりから回答が寄せられた。そのうちの1人、所内でタイピストとして働いた女性から、「自分の練習用に密かに持ち帰った」という書類の束を譲り受けた。 川崎の一連の「歴史の発掘」をNHKが紹介。今度はこの番組を見た長野県駒ケ根市にある赤穂高校の生徒たちが動いた。 生徒たちが文化祭の展示のために登戸研究所に関する証言を集めようと、地元に点在する研究所の移転先界隈を訪ね歩いた。するとある地域で「かぼちゃづくりの名人」で知られる老人が、研究所の関係者であることが分かった。数回目の訪問で「研究所のことを聞きたい」と切り出すと、老人は「これまで大人には話さなかったが、君たちには話そう」と、重い口を開き始めたという。 そして赤穂高校の生徒たちは、1989年に研究所の元幹部に面会し、その人物が封印していた史実を引き出すことに成功した。研究所の前身「陸軍科学研究所」の時代から終戦まで、所長の篠田鐐とともに、秘密戦に関する研究開発を指揮する立場にあった伴繁雄だ。