日本兵2万2000人が死亡した「硫黄島の戦い」で米軍を恐れさせた栗林中将の「後悔」
出発前夜に泣く娘、栗林中将の家族を思う手紙
遺骨収集団員の招集を翌日に控えた9月23日。出発前に家族と過ごす最後の夜。夕食と宿題を済ませて就寝したはずの7歳の長女が、わんわん泣きながら2階の寝室から、僕と妻がいる1階の居間に降りてきた。そして、こう言った。 「パパ、あの島に行ってほしくないよお!」 それまで娘には何度か、硫黄島の戦争の話を聞かせていた。たくさんの兵隊さんがかわいそうな目に遭ったんだよ、と聞かせてきた。YouTubeで公開されていた硫黄島の戦史のアニメを見せたこともあった。娘は、硫黄島ではまだ殺し合いが続いているのだと思っているようだった。その誤解を解く話をすると、娘は泣き止んで、再び2階の寝室に向けてとぼとぼと戻っていった。 僕は妻子を残して出征する応召兵の前夜を追体験したような思いになった。娘には「大丈夫だよ」と言ったが、胸の内は不安だらけだった。 この時期、硫黄島は地震が頻発していた。もしかしたら地下壕内で作業中に崩落して生き埋めになるかもしれない。不発弾との遭遇も恐ろしい。さすがに遺書までは書かなかったが、クレジットカードの暗証番号や、ネット銀行など僕が利用しているすべてのサービスのパスワードを万一の際を想定して妻に伝えた。 就寝前に荷造りを終えた。三浦さんの助言を忠実に守り、靴は地熱を通さない厚底のタイプを選んだ。実施要領によると、荷物は一人10キロまでだった。それを超えた場合、どうなるかまでは書かれていなかったが、あらゆるルールを厳格に遵守しなくてはならない雰囲気が実施要領の文面から伝わってきた。体重計を使って、きっちり10キロ未満に抑えた。 2週間、空けることになる自室のパソコンやテレビ、オーディオ機器などのコンセントをすべて抜いた。このときふと、栗林中将が戦地から家族に送った一通の手紙を思い出した。その手紙は、自宅の台所から入るすきま風を塞ぐ処置をしないまま出征してしまったことを悔やむ内容だった。妻や子供たちは寒い思いをしていないか、思いやった手紙だった。 僕は、やり残したことはないか、と頭を巡らせた。 つづく「「頭がそっくりない遺体が多い島なんだよ」…硫黄島に初上陸して目撃した「首なし兵士」の衝撃」では、硫黄島上陸翌日に始まった遺骨収集を衝撃レポートする。
酒井 聡平(北海道新聞記者)