「取り柄のないオール3の男」――徳光和夫が腐らず生き抜いてこられたコツ
日本テレビ時代、「ズームイン!」のアクションで“朝の顔”になった徳光和夫さん。80歳の今も現役で仕事を続けるレジェンドだが、若手アナウンサー時代は希望する仕事を担当できず「亜流、傍流」とバカにされ、挫折の連続だったという。不安の中、48歳で脱サラし仕事に邁進するも心筋梗塞で死線を彷徨い、奇跡的に生還するなど山あり谷ありの人生を送ってきた。本人曰く「何の取り柄もないオール3の男」が今まで生き抜いてこられたコツを聞いた。(ジャーナリスト・中村竜太郎/Yahoo!ニュース Voice)
「万年補欠で、代打でも三振」のような男
――徳光さんは『バス旅』でも人気ですし、若年層からはAKB総選挙やロックフェスの司会として知られています。 徳光さん: いやいや、人気はないです。長く、人前に出る仕事をしてきたので知られているというだけの話。自分が好かれているとか人気があるとか、おこがましい。AKBの司会の仕事もたまたまオファーがあったので受けさせてもらっただけで、ファンの方にはジジイが司会するなよと叱られそうで、かえって申し訳なく思っているくらい。本当に感謝しているのですが、自分自身こんなに長く司会業を続けられるとは思ってもいませんでした。学生時代は勉強ができるわけでもない、スポーツが得意なわけでもない、要は何の取り柄もない「オール3」の男でした。野球に例えるならば万年補欠で、代打でも三振のような(笑)。 ――そもそもなぜアナウンサーを志望したのですか。 徳光さん: 運命は私が海城高校2年の時の、1957年11月3日。東京六大学野球の立教対慶應戦で、神宮の星、長嶋茂雄さんの8号ホームランを見て衝撃を受けたこと。バンザイしてホームを踏む姿がかっこよくて、この人に会いたいと。我ながら単純でミーハーです(笑)。で、長嶋さんの母校立教大学へ行きたいと思い、進路相談したら「君の学力じゃ到底無理だ」と。けど、そのときばかりは必死で勉強し立教4学部を受験し、答案用紙を何とか埋めた。合格発表を見に行くと全滅、浪人かと諦めていたら、端っこに「補欠はあちら」とあってのこのこ見に行くと、補欠合格だったんです。