「取り柄のないオール3の男」――徳光和夫が腐らず生き抜いてこられたコツ
希望はプロ野球の実況―でもその役割は回ってこなかった
――大学に入学してからは? 徳光さん: 野球観戦できるからと応援団に入部しましたが、観客席の方を向いて指示を出す役目だから試合は見られない、バカですよね(笑)。球場で放送研究会があることに気づき、すぐさま転部です。そこからアナウンスのイロハを学んで、念願の日本テレビにアナウンス職として入社。さあこれから野球中継ができるぞと意気込んでいましたが、起用されたのは子ども番組。次は歌謡番組。「長嶋さん」どころか、花形の野球中継からどんどん離れていく。それでも諦めきれないので、休日はデンスケ(録音機)を担いで赤の他人の草野球を、スコアをつけながら実況中継したり、毎日の電車通勤で車窓から見える景色を実況したり、必死で練習しました。きっとおかしな人だと思われていたでしょうね。長嶋さんの実況ができるならアナウンサーをいつ辞めてもいいというくらいの心構えでしたが、結局そんな役割は回ってこなかった。 ――希望はかなわなかったわけですね? 徳光さん: 野球中継がやりたいという希望を上司はわかってくれてはいましたが、プロレス中継に配置転換されました。レスラーの取材に行きますとスラングみたいな英語で、一方的にすごい剣幕で怒鳴られ、グラスを投げられたり踏んだり蹴ったり。自分は何のためにこの仕事をしているんだろうと悲嘆に暮れ、アナウンサーを辞めようと真剣に考えました。そんな私を救ってくれたのがジャイアント馬場さん。馬場さんは元巨人のピッチャーで長嶋さんの同僚。巡業旅で馬場さんが時々ぽろりと苦労話をしてくれることがあって、自分の境遇に重ねてしまい、それから馬場さんを通じてプロレスが大好きになったんです。
今いる場所に不平不満があっても、いったんは流される
――『ズームイン!!朝!』ですぐ全国区という印象だったので、意外でした。 徳光さん: プロレス中継が局内でも認められるようになり、デストロイヤーに4の字固めをかけられた『うわさのチャンネル』や、神宮前の公衆トイレやストリップ劇場でロケした『なんでも実況中継』という番組をやり、それから『ズームイン』に抜擢されました。結局野球の実況はできないまま流されてきましたが、それも運命。今いる場所に不平不満があっても、いったんは流されます。そして、その境遇を受け止めて頑張ってみるというのも大事じゃないかと思います。長嶋さんや馬場さんと出会い、たまたま好きになった人が、運命を切り開いてくれました。 ――あまり知られていませんが、日本テレビ時代に硬派なニュースキャスターをやられていましたね。 徳光さん: お恥ずかしい。長年続いた夕方の『ニュースプラス1』で初代キャスターに抜擢されたのですが、プロレスや芸能という“色モノ”出身、ニュース音痴の私は苦労しました。入社当時ニュース原稿に国家予算「5円」と書かれ、そのまま読んだことで大目玉をくらい、ダメ・アナウンサーの烙印を押された過去もあり、報道は完全にアウェー。アナウンサーなのに漢字が読めないと見下されていたのか、全ての漢字にルビが振られていて。いくらなんでも「折角(せっかく)」を「おりかど」とは読みませんよ(笑)。ニュースを猛勉強する毎日で、ゴルバチョフとブッシュの首脳会談やチェコの民主化革命、湾岸戦争などを現地取材したことも。貴重な経験をさせてもらいました。 ――希望が通らなかったり、畑違いの仕事。それでも腐らずポジティブに生きてこられたのは? 徳光さん: まずは自分から積極的に「好き」になれたことですね。最初は嫌だなあ、となりますけど、ほんの些細なことでも面白さを見つけてしまえば、自分の中で可能性が広がっていきます。シンプルですけど「好きだ」という気持ちは人間を動かすパワーですし、キザな言い方をすれば人生を切り開く原動力になるのではないでしょうか。 世間的には私の人生は順風満帆に映るのかもしれませんが、自分の思い通りに進んだことはまずなかった。私も一介のサラリーマンでしたし、しかもダメなことばかりの不届き者。だからこそ、他人の下積みや苦労話に接すると、人一倍共感して涙するし、応援もしたくなる。いたって単純な親父です。「明るく、一生懸命」、それでこんな私でも何とか切り開いてこられました。要は気の持ちようだと思います。 ――そして48歳で日テレを退職。フリーアナウンサーになられたわけですね。 徳光さん: 『ニュースプラス1』時代にキャスターをやりながら管理職の肩書がついたのですが、人やものを管理する能力は皆無と自覚していましたし、現場にいたいという気持ちが強く、今後どうしたらいいのかと悩んでいたんです。すると、それまで独立を反対していた妻が「あなたが選ぶ道について行くから」と言ってくれた。だから独立以後、がむしゃらに働きました。そんな折、60歳の時に心筋梗塞で倒れまして、ICUで3日間。家族全員が呼ばれ、生きるか死ぬかの瀬戸際。三途の川を見たわけです。奇跡的に助かりましたが、悪いことがあればいいことがある。病気以降は仕事がたくさん舞い込みました。不思議なもんですね。 ――では最後に、多くの方と交わってきた徳光さんが一番大事にしているものは何ですか。 徳光さん: 人でいえば、妻ですね。脱サラするか迷っていたのを後押ししてくれたのも、家庭をしっかり守ってくれたのも、すべて彼女のおかげ。わがままな私を、自分を犠牲にして支えてくれました。妻孝行という言葉さえも憚られるくらい、感謝してもしきれません。できる限り寄り添っていきたいです。なんといっても「オール3」、いや平均点以下だった私がこうしていられるのは、自分が努力したということではなくて、実は身近な人の力が大きい。年を重ねて、はっきりとそれがわかりました。 --- 徳光和夫 1941年、東京生まれ。1963年に日本テレビ入社後、プロレス中継や歌番組を担当。1979年「ズームイン!!朝!」の総合司会を担当し、人気を博す。1989年からフリーアナウンサーに。80歳をこえた現在も司会業をこなしている。自著『徳光流生き当たりばったり』が発売中。