新妻聖子「ブランチのリポーターから帝劇の『レミゼ』で衝撃のミュージカルデビュー。いまは息子の成長が1番の喜び」
◆わずか3秒の歌唱が『レ・ミゼラブル』につながった 役者や歌手として何のキャリアもない人間が、なぜそんな大きな舞台から声をかけてもらえたのかーー。そのきっかけは、2年前のある出会いにあったのです。 私が入学した上智大学には、帰国子女だけを集めた英語のクラスがありました。自己紹介で「歌が好きです」と言ったら「一節歌ってみせてよ!」と言われたので、高校時代にコーラス部で歌っていたイタリア語のアリアを3秒ほど披露したんですね (と、数秒美声を披露)。 その時、ほんの一瞬の出来事だったにも関わらず、私の歌声を記憶してくれていた先輩がいたのです。 その先輩は2学年上で、後に『レ・ミゼラブル』のオーディション担当者と知り合いになられた女性。 「エポニーヌ役がなかなか決まらない。誰か歌の上手い子を知らない?」という話になった際、先輩が「そういえば、大学の授業でめちゃくちゃキレイな声で歌った子がいましたよ。連絡先はわかりませんが、新妻聖子という変わった名前だったから覚えています」と、私を推してくれたのです。 ネット検索をしたところ、ブランチリポーターとして活動していたのでヒットした。もし就職していたら検索には出てこなかったと思うので、本当にラッキーでした。 「新妻聖子」という名前は姓名判断の画数的にも最強で、18歳でオーディションを受け始めた頃から「絶対に本名で活動したい」という強いこだわりがありました。 本名のままブランチに出ていたおかげで見つけてもらえたので、「芸名にしなくて良かった~!」と思いましたね。(笑)色んな「もしも」が繋がって、人が何かに導かれる時は、こんなふうに収まるべき場所にスポッと収まるものなのだなと実感しました。
◆キャリアは20年に。いまだに自信が持てない日も 10代の頃「歌手になりたい」と伝えた時の両親の反応は、「いいじゃない~。頑張って」という感じでしたが、『レ・ミゼラブル』への出演が決まった時はさすがに驚いていましたね。(笑) 昔から「やりたい事をやりなさい」と全面的に信頼してくれた両親だからこそ、私は自主的に「親に甘えるのは大学を卒業するまで」と期限を定めることができました。やはり人生には抗えない「流れ」みたいなものがあって、押しても開かない扉はある。 ある程度は期限を決めて、その中で頑張ってもダメなら他の可能性を見つけるため次に行くというのは、時には必要なのかなと思います。 不思議な巡り合わせで飛び込んだミュージカル界は、完全なる未知の世界。当時、私が知っていたミュージカルは『キャッツ』くらいで、帝国劇場がどれほど大きく歴史ある劇場なのかもわかっていませんでした。でも今思えば、無知だったおかげで足がすくむこともなく、初舞台を踏めたのかもしれませんね。 この仕事を始めてからの最初の10年は、ただがむしゃらに目の前の課題に取り組む日々でした。自身の成長がまったく見えず、苦しい時間を過ごしたこともありましたが、あるときふと、その頑張りが全部自分の筋肉になっていることに気づいたんですね。 そしてそこからさらに経験を積み、現在、キャリアは20年に。いまだに自信が持てない日もありますが、それでも歩いてきた道を振り返れば「ここまで20年やってきたじゃない。だから今回も大丈夫!」と自分に言ってあげることもできる。今は、とても楽な気持ちで舞台に立てています。