「こみ上げてくる怒りと自分の無知さ」元THE BOOM・宮沢和史が語る『島唄』と人生を変えた沖縄
内向的だった少年が詩と言葉の面白さに目覚めて
2016年、宮沢は持病の頸椎ヘルニアが悪化し、療養のため無期限で音楽活動を休止した。'05年、首にバットで殴られたような痛みが走り、定期的にその発作が出るようになる。ひとたび発作が起こると眠れないほどの痛みが続き、歌唱にも影響は及んだ。 '14年、メンバーに迷惑をかけられないとTHE BOOMを解散。 ソロ活動を始めるが、間もなく限界を感じるようになる。手術の話も出たが、医師から声帯を移動すること、失敗すれば下半身不随になる可能性もゼロではないと聞き、宮沢は歌手をやめて症状と付き合っていくことを選択する。 「中学のころから曲を作り始めて、ずっと音楽で生きていくつもりでした。まさかヘルニアでバンドを解散して、自分も音楽をやめる日が来るとは思ってもいませんでした」 幼少期は身体が弱く、内向的な少年だった。近所の同級生が釣りに誘ってくれたことをきっかけに自然の中を駆け回る楽しさを覚え、活発になっていく。 小学校高学年のとき、好きだった女の子が書いていた詩の意外性に衝撃を受け、言葉の面白さに目覚めた。中学2年から自身で曲を作り始め、将来は音楽の世界で生きていきたいと願うようになる。高校は進学校の甲府南高校に進んだが、部活動を終えて家に帰ると、日夜弾き語りに励んだ。 「毎日2時間くらい自分の部屋で歌ってましたね。とにかく自信がなかったのでコンプレックスを埋めるように曲を作って吐き出していました。親にうるさい!って怒られながら(笑)」 高校の同級生で山梨県勝沼にあるレストラン『ビストロ・ミル・プランタン』のオーナーである五味丈美さんが、当時の宮沢を振り返る。 「目立つタイプではなかったですね。集合写真を撮るときも、隅っこで頭をかいていたり、カメラのほうを見なかったりするようなシャイな性格でした。学園祭などでみんなの前で歌っているのを見て、こんな面もあるんだと驚きました」 宮沢は高校卒業と同時に上京。1986年にTHE BOOMを結成し、翌年から原宿の歩行者天国でのライブ活動をスタートする。徐々に注目が高まり、CBSソニーのオーディションを受けることをすすめられ出場。グランプリを受賞し、念願のメジャーデビューが決まった。ちょうど宮沢が明治大学を卒業する前年のことだ。 毒気を叙情性でくるんだ耳に残る楽曲と、跳んだり走ったりの派手なステージパフォーマンスで一躍人気を集めたが、宮沢は悩んでいた。ポリスやザ・スペシャルズなどにヒントを得た、ロックにスカやレゲエのリズムを取り入れたスタイルが定着しているが、これが自分の音楽なのか? 自分にしか作れない音楽とは何なのだろうか? 「プロになる人の中には早熟で10代から完成されている人がいます。僕はそうじゃなかった。デビューはしたものの、このままじゃとてもこの世界で生きられないと焦りを感じました」