「こみ上げてくる怒りと自分の無知さ」元THE BOOM・宮沢和史が語る『島唄』と人生を変えた沖縄
人生を変えた沖縄での経験、『島唄』の大ヒット
西洋のポップス、ロックから離れ、沖縄やアジアに目を向けていたころ、レコード会社のスタッフから沖縄民謡のカセットテープをもらい、旋律の心地よさと三線の音色のとりこになる。 琉球音階を取り入れた曲作りにも挑戦した。3枚目のアルバム『JAPANESKA』のジャケット撮影で初めて沖縄を訪れた際、保留にしていたその曲の歌詞がどんどん浮かんでくるという不思議な体験をする。『ひゃくまんつぶの涙』とタイトルをつけ、アルバムに収録した。 翌'91年の再訪での出来事が、宮沢の人生を大きく変えることになる。立ち寄ったひめゆり平和祈念資料館で学徒隊の生存者である女性から沖縄戦の実情を聞き、「自分は何も知らなかった」ことに激しいショックを受けた。島民の4分の1が犠牲となり、米兵、日本兵も含めると20万人以上が亡くなったこと、集団自決があったこと、自分の子どもを殺めなければならなかった人がいたこと、日本の政策によって沖縄は本土決戦の「時間かせぎ」の場にされたこと……。 こみ上げてくる怒りと自分の無知に感情が爆発しそうだった。本土の人たちに今の平和は沖縄の犠牲の上にあることを知ってほしい。二度と戦争など起きてはいけない。 近くにあったサトウキビ畑に囲まれた防空壕の中でじっと時を過ごし、宮沢は逡巡しながら話を聞かせてくれたあの女性に聴いてもらうためにも、この思いを曲にしようと誓う。 そして、誕生したのが『島唄』だった。 まるで「頼んだぞ」と魂の包みを渡されたような不思議な感覚で曲が生まれたが、当時は沖縄と本土の間には見えない文化的な壁があった。本土の人間である自分が三線を持って沖縄戦を歌っていいものだろうか。この時期、ロックと沖縄民謡を融合させた先駆者である喜納昌吉と出会い、「もし君が魂までコピーすればそれはもう、まねじゃない」という言葉に背中を押されて世に出すことを決意する。
再開未定の活動休止期間に
'92年、『島唄』は4枚目のアルバム『思春期』に収録されたが、バンドは夏に再開未定の活動休止期間に入る。デビューから休みなく走り続け、身も心も疲弊していた。 メンバーはソロ活動を始め、宮沢はシンガポールのミュージシャン、ディック・リーの誘いでミュージカル『ナガランド』に出演し、アジア各国を回った。作品の「アジアの小さな島国が、閉ざされた歴史と開かれた未来のはざまで、葛藤しながら新しい夜明けに向かっていく」というストーリーに強く共鳴した。この経験がバンド再開へのモチベーションを高めることになる。 年末にTHE BOOMは『島唄』のウチナーグチ・ヴァージョンを沖縄限定で発売し、50万枚を売り上げる。翌年、本格的にバンド活動を再開し、『島唄(オリジナル・ヴァージョン)』を全国リリースすると150万枚という大ヒットを記録した。しかし、その陰で沖縄の一部ではバッシングの声も上がっていた。 表面的には男女の別れの歌にし、真意はすべての歌詞の裏に込めたが、「ヤマトンチュが琉球音階を使うとは何事だ」「沖縄でひと儲けしようとしているあんたこそ帝国主義ではないのか」などという厳しい声が宮沢の耳にも届いた。 本意を真逆に捉えられたことがつらく、沖縄に行くのも気詰まりになってしまう。