5日で5連戦の過酷な大会「全国社会人サッカー選手権」は中止せよ(2)日本サッカーの父が提言した「JSL」、構想から外れたチームのための「全社」
■大学生から「実業団」の時代へ
今年が第60回大会ということは、第1回大会は1965年に開催されたということだ。つまり、全国社会人選手権大会は1964年の東京オリンピックの翌年に始まった、きわめて長い歴史を持つ大会でもある。 当時は、「社会人」という言葉にも実質的な意味があった。 日本のサッカーは、第2次世界大戦前までは大学チームによって牽引されていた。大学を卒業すると多くの選手は引退したが、社会人になってもサッカーを続ける選手もいた。企業内のチーム(実業団)でプレーする場合もあったし、クラブチームでプレーする場合もあった。 ただ、多くの選手は全日本選手権には大学のOBと現役学生によって構成されるチームで参加していた。「慶應BRB」とか「早稲田WMW」といった名称のチームだ。天皇杯の歴史を紐解けば、こうしたチームが何度も優勝を遂げてきていることがわかる。 しかし、戦後になると、実業団チームで強化に力を入れるチームが現われ始める。1954年には東洋工業(のちのマツダ。サンフレッチェ広島の前身)が実業団として初めて決勝に進出したが、慶應BRBに敗れた。そして、1960年には古河電工(ジェフ・ユナイテッド千葉の前身)が慶應BRBを破って実業団で初めて天皇杯を獲得した。 その後、時代は実業団優位に移っていく。 1964年には東京オリンピックが開かれたが、翌1965年には日本のサッカーで初めての全国リーグ、日本サッカーリーグ(=JSL~1992年まで、以降、ジャパンフットボールリーグ~1998年まで、の後を受け継いで、現在の日本フットボールリーグ=JFLに)が始まり、実業団の強豪8チームが参加した。 そして、これと同時に全国社会人選手権も始まったのだ。
■「不参加チーム」のための大会
それまで、社会人(実業団)チームが参加できる全国大会としては3つあった。一つは、天皇杯全日本選手権大会。そして、全日本実業団サッカー選手権大会があった(1948年に第1回大会)。これは、文字通り実業団(選手がすべて同一企業あるいは企業グループに所属するチーム)だけの大会で、クラブチームは出場できなかった。 そして、さらに全国都市対抗サッカー選手権大会があった。これは、1955年に第1回大会が開かれており、クラブチームにも門戸が開かれて補強選手が認められていたので、他企業の選手が参加したり、複数の企業の合同チームが参加したりもした。 今では、選手は必ず1つのチーム(クラブ)に登録されることになっているが、当時はそういうことが許されていたのだ。 そして、天皇杯全日本選手権大会も含めて、こうした全国大会はすべて集中大会として開催されていた。全チームが特定の都道府県に集まって一斉に開催され、現在の全国社会人選手権大会と同じように、連戦のノックアウト式トーナメントとして行われたのだ。 当時、日本代表の特別コーチとして招聘されていたデットマール・クラマー(西ドイツ)は、こうした大会を視察して、ノックアウト式では1回戦で敗れたチームは1試合しか経験できないこと。そして、準決勝、決勝となると、連戦の疲労が溜まってきて高いレベルの試合ができないこと、そうした弊害を指摘。リーグ戦形式の導入を提言したのだ。 JSLは、このクラマー・コーチの提言を受けて発足した(「日本サッカーの父」と呼ばれるクラマー・コーチは地域リーグを想定していたようだが、当時の指導者たちは一気に全国リーグを発足させた)。 そして、JSLに参加しなかった社会人チームのための大会として、新たに始まったのが全国社会人サッカー選手権大会だった。 だから、「全社」が集中方式の連戦で行われるのは、大会が始まった1960年代のやり方をそのまま踏襲したものだということになる。僕が最初のほうで「今時、こんな……」と書いたのはそういう意味なのである。
後藤健生
【関連記事】
- ■続きはコチラ 5日で5連戦の過酷な大会「全国社会人サッカー選手権」は中止せよ(3)「求めたい」地域CLとの統合、JFL挑戦権は「余裕のある」日程で
- ■【画像】整形告白でも話題、 W杯で「美人すぎるサポーター」と注目のジュビロ公式アンバサダー、美人妹と「フェス参戦2ショ」がハンパない
- ■1本目はコチラ 5日で5連戦の過酷な大会「全国社会人サッカー選手権」は中止せよ(1)大学生を含む「社会人」の大会を初観戦、決勝進出はFC徳島と「専門学校生」
- ■【画像】浦和サポーターの「心遣いの応援」が引き寄せた薄氷の勝利【浦和レッズvs柏レイソル】PHOTOギャラリー
- ■無料なのにVIP待遇「サッカー記者席」の大問題(3)続出した「キャンセル」とその後のペナルティ、改善すべき「格差」