日本初の民間銀行創業までの道のりとは?三井大坂両替店が行った、信用調査と貸し倒れ予防策にみる成功の秘訣
◆最初は御為替御用が始まりだった 三井大坂両替店とは、現在の三井グループの「元祖」として知られる三井高利(たかとし)(1622~94)が、晩年の元禄4年(1691)から営業を開始した、今でいう総合金融機関である。 当初は高麗橋一丁目(現大阪市中央区)に店舗を構え、宝永3年(1706)頃に高麗橋三丁目に移転した。大坂両替店の開業は、高利の息子たちが幕府から御為替御用(おかわせごよう)を請け負ったことに端を発する。 各地に点在した幕府領のうち、西国の年貢米の多くが大坂に廻送されたことはよく知られている。 幕府は、概ね1680年代まで西国年貢米を大坂で換金し、随時、江戸に陸路(御伝馬<おてんま>)で送金していた。これは江戸での支出にあてるためであったが、幕府の公用陸上輸送は宿駅に多大な負担を与えた。 そこで幕府は、元禄4年以降、大坂に店舗を持つ江戸の両替屋たちに送金業務(御為替御用)を委託することにした。 三井は、その一員に抜擢され、すぐさま大坂に両替店を構えることになった。 実は、この御為替御用には特別な役得があった。幕府公金を大坂で預かり、江戸に上納するまでの90日間は、それを融資に転用できたのである。三井大坂両替店は、その莫大な幕府公金を元手に金貸しとして大きく成長した。 実際、三井は「両替店」を名乗りながらも両替業務にはほとんど従事せず、基本的には民間相手の金貸し業を主軸とした。まさに大型民間銀行の源流といえるだろう。
◆信用調査 『三井大坂両替店』では、とくに以下の二点に注目して、三井大坂両替店の技術と挑戦を描く。 ひとつは、信用調査である。 現代では、クレジットカードの発行を申請すると、カード会社は信用情報機関に顧客の信用情報を照会し、この情報をもとにカード発行の可否を判断する。 しかし、江戸時代ではそう簡単に信用情報が得られない。信用情報機関はおろか、現在のように、源泉徴収票などで顧客の年収を確かめることもできない。 自ら信用調査をしなければならなかったからこそ、三井大坂両替店のような金貸しは、冒頭で紹介した心構えで業務に臨んだ。 三井大坂両替店は、開業から100年ほどは順風満帆な経営だったが、18世紀末には不況や災害に見舞われ、危機が訪れる。業績挽回を目指す三井大坂両替店にとって融資先の新たな獲得は急務だった。 しかし、信用調査書と実際の成約数をみると、新規顧客が10名いたとしても、三井が新たな融資先としたのは、わずか1、2名に過ぎなかった。実に80%ほどの顧客が審査に落ちたのである。日本近世史研究において、この契約前の取捨選択と技術はほとんど解明されてこなかった。 書籍では、三井大坂両替店にかかわる多くの史料を読み解き、担保の評価や信用調査の方法に至るまで、まさに銀行業の基本業務が江戸時代ではどのようにおこなわれていたかを解明する。