乳がんステージ4の50代新米記者が語る仕事論「いい意味であきらめが肝心」
「明日から夏休みで、パリへ行くんです」と、朗らかに話す。その一方で、抗がん剤を服薬し、3週間に1回2種類の点滴、6週間おきに注射を受けている。毎日新聞社生活報道部の三輪晴美記者は、闘病歴9年・ステージ4の乳がん患者だ。小林麻央さんが亡くなった直後に書いた、『記者の目ー小林麻央さんからの「伝言」』はネット上で大きな反響を呼んだ。 意外なことに本人は記者になって3年の「新米記者」だった。野心的に働く中で築いたキャリアなのか?病を抱えながら50代で新聞記者になった三輪さんに、仕事との付き合い方を聞くと「いい意味でのあきらめ」が必要だという答えが返ってきた。 【みわ・はるみ】1964年大阪府生まれ。1989年毎日新聞に入社。出版局で20年近く雑誌や書籍の編集を手がける。2008年にステージ4の乳がんで休職、翌年に復職。現在も治療を継続中。2014年4月から生活報道部記者。
44歳で乳がんに
三輪さんは元々記者志望ではなく、記者職採用でもない。大学で美学を学んでいたので、展覧会などの企画がやりたくて、毎日新聞社に入社した。念願の事業部に配属された後、美術の知識を買われて出版局に異動した。本や雑誌の編集者として充実した毎日を送る中、40歳代で乳がんの告知を受けた。 ──乳がんがわかったのは何歳のときですか 2008年11月、44歳のときでした。告知されたときには骨やリンパ節に転移して、ステージ4でした。体全体が痛くて立ち上がれず、車椅子を使わないと移動できないぐらいでしたから、仕事が続けられる状態ではありませんでした。休職して実家のある関西で治療に専念することになりました。当時は、「もう(数ヶ月で)死んじゃうのかな…」という思いでしたね。 ──退職しなければならない、ということにはならなかったのですか 退職のプレッシャーはなく、会社の人たちは「待ってるよ」と言ってくれました。後から聞いたら、内心は「今生の別れ」と思っていたみたいなんですが。それはとてもうれしかったです。やっぱり差別される会社もあるでしょうし。もちろん人に言いたくない人もまだまだ多い。そんな中で幸運だったと思います。 ──療養のときの支えは 周りの人ですね。両親や兄や友人に「支えてもらっている」と自覚できた時からちょっと意識が変わって、生きていること自体がありがたいって思えるようになりました。周りに対する感謝の気持ちとか、みなさん持ってるとは思うんですけど。そんなに自覚する機会がないですよね。病気になると、自分の周りの人間関係がわりとはっきり見えます。私は、がんをきっかけにあんまり仲良くなかった人と仲良くなれたりすることもありました。 ──治療から職場復帰まではどのぐらいの期間がかかりましたか? 休職してから、ちょうど1年の2009年の11月に職場復帰できました。私の場合、がんの転移が広範囲で、首や頭の骨も危ないという状態だったので、手術はできず最初から抗がん剤治療を受けることになりました。ただ、意外なことに、壮絶な副作用があまりなかったんです。2008年の年末には退院し、その後3週間おきの抗がん剤治療で、2009年9月には、胸やリンパ節の腫瘍はほぼ消失させることができました。 骨に転移したがんは少し残りましたが、体調も回復し、療養の後半には、本のゲラをチェックしたり、著者に会いに北海道へ行ったり、仕事も始めていました。それだけ元気になっていたんです。療養中に仕事をしていたことは、後で上司にすごく怒られたんですけどね。