18年で368万台!フィアット500の多彩なバリエーションを『2024 All Japan FIAT&ABARTH 500 Meeting』エントリー車で振り返る!【後編】
山梨県富士吉田市にある富士北麓駐車場(富士山パーキング)を会場に『2024 All Japan FIAT&ABARTH 500 Meeting』が開催された。前回に引き続き、今回はミーティングにエントリーした車両を中心に、「ヌォーバ・チンクェチェント」こと2代目フィアット500について解説していく。「プリマ・セリエ」から最終型の500Rまで、歴代シリーズを詳しく紹介もしているので、フィアット500に興味がある人はじっくりと読んでいただきたい。 REPORT&PHOTO:山崎 龍(YAMAZAKI Ryu) フィアット500の量産開始時期決定直後に開発陣に訪れた悲劇とは? 【】 フィアット500の開発作業が進むにつれ、ジアコーサの悩みの種となったのが重量とコストの増加であった。そこで改めて設計を見直し、鋼板加工技術に工夫を施すことで、プレス加工時にスクラップとなる端材が極力出ない方法が考案された。加えてジアコーサはボディをさらに丸くすることで、表面積を削ることができ、鋼板の使用量と車重の減量へと繋がることに気づいてデザインを修正している。 また、その際にルーフラインをやや高く持ち上げ、後席頭上空間を拡大すべく改良を施した。一時はコストダウンのため、車体前方のトランクルームの廃止すら検討されたというが、さすがにこれはやり過ぎということで廃案となっている。 開発陣のこうした弛まぬ努力が功を奏し、1956年1月の重役会議で暫定的ながらフィアット500の生産開始時期が1957年1月へと決定した。この会議の直後に空冷2気筒(ヴァーチカルツイン)エンジンに組み合わされる変速機が、600と共通の4速MTに決定する。ただし、コストとの兼ね合いからフルシンクロは断念され、ノンシンクロの変速機が搭載されることになった。同じタイミングで足まわりの仕様も決定し、こちらは車両重量のある600と同じパーツがそのまま流用されることになり、クラスの水準を超えた走行安定性が500にもたらされることとなる。 生産開始時期の決定から実際に始まるまでの期間はおよそ1年。この間にフィアット500の開発作業は着々と進み、量産車のプロトタイプが完成したところで開発は最終段階へと突入した。プロトタイプによる公道テストが連日繰り返され、不具合が出ては改修し、改修しては試走を行うという作業が繰り返し行われた。 そんなある日、500の開発陣に不幸が襲う。腕自慢のフィアット・テストドライバーの中でもトップエースだったルイジ・ヴェスティデッロが、公道を試走中に前走車を追い越すためセンターラインを割って飛び出してきた対向車と正面衝突したのである。彼は即死だった。 ヴェスティデッロはジアコーサの友人であるとともに、開発チームを盛り上げるムードメーカーでもあったという。開発初期から500に携わっており、ジアコーサ率いる開発チームは深い悲しみと埋めようのない大変な損失を被ることになったのである。 開発遅延で3月のジュネーブショーを見送り 6月にトリノで発表会を開きワールドプレミアを飾る ヴェスティデッロの死はフィアット500の開発計画にも深刻な影響をもたらすことになった。当初予定されていた1957年3月のジュネーブショーは開発スケジュールの遅延により早々に見送られることになったが、フィアットを悩ませたのが発表のタイミングであった。 潜在的な需要の高まりを見せている安価な超小型車を1日でも早く市場に投入したいところではあるが、会社の将来を左右する基幹車種として期待されているだけに、世界中のマスコミが取材に訪れる11月のトリノショーでセンセーショナルなデビューを飾りたいという気持ちもフィアット上層部にはあったのだ。 喧喧諤諤の議論の末、気候が温暖で天気の日が続く6月に、本社のあるトリノに各国からマスコミを招いて盛大な発表セレモニーを執り行うことに決定した。こうして予定通り発表された500の新車価格は、600から13万リラ近く安価な46万5000リラ(現在の貨幣価値で邦貨換算すると560万円)で販売されることが発表される。これは当時の平均的な労働者の13ヶ月分の月給と同じ金額であり、イタリアの大衆は「夢にまで見たマイカーがついに現実になる」と大いに湧き上がったのである。 想定外だったデビュー直後の躓き その原因は性能不足と簡素すぎた装備 ところが、1957年7月にいざ販売を開始してみると、事前の盛り上がりに反してフィアット500のユーザーによる評価は惨憺たるものだった。それというもの今日「プリマ・セリエ」(イタリア語でファースト・シリーズの意味)、あるいは単に「ヌォーバ・チンクエチェント」、その頭文字をとって「500N」などと呼ばれる初期モデル(110)の最高出力は13psに過ぎず、初期計画から100kgも増えた475kgの車両重量もあって、日常使いでもストレスを感じるほど非力だったのだ。 実際問題として、フィアットの発表では最高速度は88km/hとされていたが、現実には80km/hがやっとだった。この動力性能ではいくら安価で経済的に優れていたとしても、消費者の購買意欲をそそるまでには至らないのも当然の話だ。販売開始とともに購入したオーナーからは、意気地のないエンジンにクレームが殺到しただけでなく、振動と騒音の大きさ、飾り気のなさから見栄えが悪く、サイドウィンドウはすべて嵌め殺しとなり開くのは三角窓のみという、あまりにも簡素に過ぎた装備にも批判が多く寄せられたのであった。 この市場からの悪評を受けて、少しでも外観を良くしようと同年9月にクロームメッキのハブキャップをオプション設定するなどの小変更が早くも行われた。だが、これが付け焼き刃的な対処方法であることは重々を承知していたフィアットは、ジアコーサに命じて11月のトリノショーまでに急遽改良を命じたのである。 上層部の命を受けてジアコーサが講じた対策は、まず批判の多かった心臓部を479ccの排気量はそのままに、キャブレターセッティングの見直しとカムシャフトの変更による高圧縮化によって最高出力を15psへと引き上げたことであった。それによって最高速度は90km/hへと向上し、ひとまずは動力性能の問題は解消した。 次いで行ったのが嵌め殺しの前席サイドウィンドウをウィンドウレギュレーターを用いた昇降式へと変更したことで、三角窓とキャンバストップ以外からもフレッシュエアーを取り込めるように改善されたのだ。また、外装はサイドスクリーンの周りのウィンドウトリムをクロームメッキへと変更し、ボディ側面にはモールを入れ、オプションのハブキャップを標準装備するなど多少なりとも見栄えが良くなるように手が加えられた。 これらの改良が施されたフィアット500は、新たに設定された上級グレードの「ノルマーレ」に与えられることになり、従来モデルは廉価グレードの「エコノミカ」として残されることになった(ただし、最高出力は15psへと引き上げられた)。「ノルマーレ」の登場は市場から概ね好意的に受け止められ、わずか2万9000リラを追加することで上質な500が買えるということで、以降販売の主力がこちらが担うことになった。また、すでに500を納車されたオーナーのためには、2万5000リラを支払うことで「ノルマーレ」相当にアップグレードできる救済プログラムが用意され、既存のオーナーから不満が出ないように配慮がなされた。 この改善によって商品力を大幅に向上させたフィアット500に、出足での躓きを挽回すべく、フィアットは現在使用中のスクーターを高価下取りするという強引な販売策でユーザーの乗り換えを促すキャンペーンを展開。これが当たって自動二輪車のユーザーを取り込むことに成功し、イタリアの大衆に500を普及させることに成功したのだ。その結果、500の売れ行きは大きく改善され、瞬く間にイタリアの路上が500で溢れかえることになった。庶民でも手が届く大衆車の登場によってイタリアにモータリゼーションの大波が到来したのである。 排気量を拡大したホットバージョンのフィアット500スポルトは 最高出力は21.5psで最高速度は100km/hを実現 イタリアはサッカーと並んでモータースポーツの人気が高い国でもある。フィアット500の商業的な成功は、それまで自動車レースを観客として“見る”だけでなく、自らハンドルを握って“参加”する楽しみを大衆に提供した。その結果、イタリアのモータースポーツの裾野は広がり、1958年にフィアットはスポーツ志向のユーザーのためにホットバージョンである「フィアット500スポルト」を新たにラインナップに載せたのだ。 新たに登場した500スポルトは、排気量を499.5ccへと拡大し、カムシャフトを高回転に耐えられる鍛造製に変更。吸排気バルブや燃焼室、空冷ファンの回転スピードにも手が加えられるなどエンジンに高度なチューニングが施され、最高出力は21.5psへと向上。あわせて車体は剛性強化のためにキャンバストップを廃して3本の補強材を入れたスチールルーフになった。さらに、ノルマーレやエコノミカとの差別化のため、ボディ色は専用カラーのライトグレーでペイントされ、ボディ側面にはレーシーな赤いストライプが入れられていた。 このフィアット500のホットバージョンは、デビュー年にホッケンハイム12時間レースに参戦して排気量 1.0L以下の小型車クラスで1~4位までを独占したほか、リエージュ・ブレッシャ・リエージュ・ラリーでは500スポルトをベースにしたザガート製のスペシャルボディを載せたアバルトが好成績を残している。 輸出市場からの要望に応えて追加された「テッド・アプリービレ」とは? フィアット500は1959年7月のマイナーチェンジで、従来のリヤウインドウまで開口するフルオープン仕様の「トランス・フォルマービレ」に加えて、前席上部のみにキャンバストップを設けた「テッド・アプリービレ」を追加している。 トランス・フォルマービレは開口部が大きく、フルオープン時に乗車した全員が爽快感を味わうことができる反面、雨天時や寒冷期にトップをかけると頭上空間に余裕がなくなり、後席乗員の頭がキャンバストップに当たるという欠点があった。イタリアでは晴天時にはトップを開けて走るユーザーが多く、あまり問題にならなかったようだが、ドイツやイギリスなどの輸出先では改善を求める声が多く、フィアットはこうしたユーザーからの要望に応えるかたちで新たな仕様を追加したのだ。 同時にイタリア国内の法規改正の都合から、フロントマスクの室内用エアダクトがなくなり、ポジションランプとウィンカーを兼ねた小さな琥珀色のランプが備わるようになった。このときのマイナーチェンジでスティールルーフだけの設定であった500スポルトでもテッド・アプリービレが選べるようになった。 エンジンレイアウトを変更して広いラゲッジルームを確保した 貨客両用車「ジャルディニラ」と「フルゴンチーノ」の誕生 優れた大衆車であったフィアット500の数少ない泣き所がラゲッジルームの狭さにあった。1960年6月に追加されたステーションワゴンの「ジャルディニラ」とライトバンの「フルゴンチーノ」は、そんな500の弱点を補うべく、広いラゲッジルームが与えられた貨客両用車であった。基本設計を共有する両社であったが、前者は一般的なステーションワゴン、後者はリヤクォーターウインドウを廃止したパネルバン(アメリカ風に言うならセダンデリバリー)というボディの仕立てに違いがあった。 RRレイアウトのステーションワゴンの設計に当たって問題となるのが、車体後部に位置するラゲッジルームとエンジンルームの両立にある。この難問に対してジアコーサは天才的な閃きにより、エンジンを横倒しにして荷物を積むための低くフラットな床面を作るという妙案を思いついたのだ。このエンジンのレイアウト変更に合わせて、空冷ファンは強力なラジアルファンへと変更され、エアインテークはベルリーナのリアフード上からリヤピラーに組み込まれた左右のエアインテークへと移設された。 これによってボディの設計に自由を得たワゴンボディは、ベルリーナのBピラーから後方を再設計し、ホイールベースを100mm、全長を215mm、全高を29mm拡大して、コマーシャルカーとして使用しても過不足ないラゲッジルームの確保に成功している。そして、荷物の出し入れがしやすいようにボディエンドには新たに横開きのバックドアが設けられることになった。また、重量の増加に合わせてドラムブレーキの径も拡大されている。 ジャルディニラとフルゴンチーノの車重はベルリネッタに比べて55kg重くなり、動力性能と燃費性能は低下したが、ホイールベースと頭上空間の拡大により荷室の確保だけでなく、副次的な効果で後部座席の居住性も改善され、4人の大人とある程度の荷物、もしくは後部座席を畳むことでふたりの大人と200kgの荷物を運ぶことが可能となった。 両車はベルリーナがマイナーチェンジを受けたあともカタチを変えることはなく、フィアットブランドでの生産が終了する1968年(バッジエンジニアリングの姉妹車であるアウトビアンキ版は1977年)まで生産が継続された。ジャルディニラとフルゴンチーノは逆開きのスーサイドドアを採用したクルマとしては、いちばん最後まで生産されたイタリア車となった。 スポルト譲りのエンジンを搭載するなど 仕様変更により完成度を高めたフィアット500D 1960年10月、フィアット500は初めての大掛かりなマイナーチェンジが施されることになる。これによって誕生したモデルは「フィアット500D(110D)」へと名称が変更されることになり、ジャルディニラを除くすべてのモデルが置き換えられた。 フィアット500Dの外観上の特徴は、視認性向上のための大型テールランプの採用にあった。また、トランス・フォルマービレは廃止され、全車ハーフサンルーフ仕様のテッド・アプリービレとなっている。内装はリヤシートが折りたたみ式になり、シートを畳むとラゲッジルームとして使用できるように工夫されていた。ほかにも前方のラゲッジルーム内にある燃料タンクの形状を変更し、四角形としたことで荷物がわずかに積みやすくなった。 フィアット500Dに搭載されるパワーユニットは、ウェーバー製TYPE26IMBIキャブレターを新たに採用し、排気量をスポルトと同じ499.5ccとすることで最高出力は17.5psまで高めている。これによって500はデイリーユースでは過不足のない余裕のある性能を得たのである。 1961年、フィアット500Dは早くも改良の手が加えられた。この改良により、ウィンドウウォッシャーが標準装備とされ、バックミラー内蔵の室内灯のスイッチが運転席ドアに設けられたほか、インパネ中央に新たに灰皿と物入れが増設されている。ほかにもダッシュパネルに燃料警告灯を含む各種警告灯が追加されたが、メーターナセルそのものには変更はなく、したがって燃料計の装備は見送られている。 フィアット500Dにはマイナーチェンジ前の500スポルトのようなスポーツモデルの設定こそなかったが、この頃にはアバルトやジャンニーニなど500のチューニングを手がけるカロッツェリアが台頭し、国内外のモータースポーツで活躍を見せていたことから、スポーツ志向のユーザーはこちらを頼っており、販売面でとくに問題が生じることはなかったようだ。 新安全基準に対応してドアの開き方を変更 ボディパネルも変更されてよりモダンになったフィアット500F イタリアのモータリゼーションの原動力となり、商業的な成功によりフィアットを大いに潤わせたフィアット500Dであったが、デビューから5年余りが経過するとそろそろ販売面のテコ入れが必要になってきた。そんな折、イタリア国内で自動車の安全基準が引き上げられることになり、乗用車に後ヒンジのスーサイドドア(前開きドア)の使用が認められなくなることから、フィアットは法規対策と商品力の強化を狙って、1965年3月に改良型の「フィアット500F(110F)」を登場させている。 前述の通り、その最大の変更点はドアの開き方で、後ヒンジのスーサイドドアから前ヒンジの通常型のドアに変わったのが大きな特徴だ(ジャルディニーラとフルゴンチーノは商用車扱いとなり適応除外とされた)。このドアの変更によって各ピラーがわずかずつ細くなり、フロントウインドウが縦方向に広げられて視界が広くなった。 併せてボディパネルの構成も見直され、トランクフードの形状が変更されたほか、Aピラーやルーフにあったつなぎ目も消されている。さらにボディサイドやトランクフード、リヤウインドウ下側のアルミモールが省かれた。なお、500Dまで備わっていた「nuova500」のエンブレムは今回のマイナーチェンジを機に外されており、代わって「FIAT500」へと付け替えられている。 空冷バーチカルツインの心臓部に大きな改良は施されなかったが、キャブレターセッティングの見直しにより、最高出力がわずかに向上して18psとなっている。また、クラッチはコイルスプリング式からダイヤフラム式への変更により耐久性が向上したほか、燃料タンクが横長のものになり容量が増加。ヒーターシステムの改良により車内への排気ガスの侵入が少なくなり、キャンバストップの開閉レバーが2箇所から1箇所へと簡素化された。右ハンドル車のワイパー位置が変更されて雨天時の視界が良くなるなど、これらの改良によって車重は20kg増えたが、出力が向上したことで動力性能に影響はなかった。 モダン化されたフィアット500Fの登場により、500シリーズの人気は再燃し、後述する豪華仕様の500Lとともに1972年の生産終了までに500F/500Lは272万2000台が生産され、商業的な成功をフィアットにもたらした。 オーバーライダーが外観上の目印となる上級グレードのフィアット500L 1968年9月、フィアットは500Fの上位グレードとして「フィアット500L(110L)」を新たにラインナップへと追加した。モデル名の「L」とはイタリア語で豪華を意味する「LUSSO」の頭文字から取られており、外観上の識別点はフロントのバッジが小さくなり、前後にオーバーライダーが追加され(それに伴い全長は50mm拡大した)、リヤのナンバープレートの台座がアルミ製からメッキを施されたプラスチック製に変更されたことくらいだった。ただし、新たに装備されたオーバーライダーは、バンパーをぶつけて前後の車を押し出して駐車スペースを確保することが多いイタリアでは重宝される装備だった。 500Fからの改良点は主にインテリアに集中しており、ベースモデルに対して質・装備とも充実したことがフィアット500Lの特徴となる。 車内でまず目に付くのは立派になったインパネまわりで、従来までのシリーズがナセル内に収まる小径の円型スピードメーターを採用していたのに対し、フィアット500Lでは850と共通の燃料計付き楕円型メーターとなったことで視認性と使い勝手が大幅に向上した。 加えて、ダッシュパネルには樹脂製のカバーが装着され、金属のボディパネルが剥き出しの500Fよりも明らかに高級感が増している。ステアリングホイールは従来モデルと同じく2本スポークタイプのままだが、500Fとは意匠が異なるスポーティなものが奢られていた。 また、前席シートは500シリーズで初めてのリクライニング機能が付き、シート表皮にはステッチの入った上質なビニールレザーが採用された。ほかにもゴムマットはモケット製のカーペットへと置き換えられ、ドアトリムには地図などを入れるのに便利なポケットが追加されるなど、細々とした装備が追加・変更されている。なお、メカニズムはラジアルタイヤを標準装着としたこと以外はベースモデルの500Fと差はなかった。 フィアット500Lの新車価格は500Fの47万5000リラから5万リラ高い52万5000リラに設定された。イギリスなどの輸出市場では500Fよりも装備が充実した500Lのほうが人気が高かったようだ。 ジアコーサが理想とした経済的で実用性に優れた超小型車というコンセプトからは若干離れてしまった感もないではないが、1970年代を目前に控え、経済成長の果実をイタリア国民が充分に味わえるようになり、日々の生活にも潤いができて、庶民でも多少の贅沢も許されるようになったという世相の影響もあったのだろう。ベースモデルの500Fと人気を二分するかたちで、上級グレードのフィアット500Lは好調な売れ行きをみせていった。 後継車種「126」の登場により ボトムエンドを担った廉価版がフィアット500R 1972年11月、イタリアの庶民から長らく愛され続けてきたフィアット500の後継車がついに登場する。のちに「バンビーノ」(イタリア語で小さな男の子の意味)と親しまれるフィアット126がデビューしたのだ。このクルマは500の基本設計を踏襲しつつ、メカニズムをブラッシュアップし、ボディをわずかに拡大した発展型である。後継モデルの登場でとうとうフィアット500の命運も尽きたかに思われたが、意外にもフィアットはここで最後のマイナーチェンジを敢行。500には新たにボトムエンドを担う廉価モデルとしての役割が与えられたのだ。 こうして後継モデル・126と同時デビューを飾ったのがシリーズを締め括った「フィアット500R(110R)」であった。モデル名の「R」とはイタリア語で改訂版を意味する「Revised」の頭文字を取られており、その名が示す通り、500シリーズで最も性能が高く、完成度が高いモデルでもあった。 フィアット500Rのエクステリアは、126と共通の新しいフィアットのロゴが入った以外に500Fにほぼ準じたものである。インテリアも同様で、各パーツの配色が白基調から黒基調にカラー変更され、ドアのオープナーレバーが500L(クロームメッキは省かれた)と同じものになって場所も変わり、インパネ上のスイッチはメーターランプスイッチとヘッドランプスイッチがまとめられたことで、3つから2つへ変更されるなど、細かな違いはあるものの基本的には500Fのものを踏襲している。 しかし、メカニズムに関してはフィアット500から126への橋渡しをするモデルらしく両モデルの折衷型となっていた。心臓部は126と共通の空冷2気筒594ccエンジンに換装されており、フロアパンも126のものが流用されている。ただし、ギヤボックスは126のようにフルシンクロ化されることはなく、ノンシンクロの500のものがそのまま使用されていた。また、ホイールハブは126と共通化されているが、ホイール自体はハブキャップの付かない500R専用のものが装着されている。 廉価版とは言え性能面では目を見張るものがあり、最高出力は後期型では23ps(初期型は18psに据え置かれた)へと引き上げられ、同時にホットバージョンの500スポルトを除くと、最高速度は初めて100km/hの大台に到達している。 また、装備面でもこれまで500Lのみに許されていたリクライニングシートが標準装備となり、質素な内外装にさえ目を瞑れば、歴代シリーズでもっとも乗りやすく、使いやすく、快適なフィアット500となった。まさにシリーズの最後を飾る決定版と言えるだろう。 ただし、排気量の拡大などでメカニズムに手が入れられたことで価格は66万リラとかなり高くなったことに加え、この頃には後継車種の126以外にもイタリア国内外に優れた小型車が登場したこともあり、基本設計に古さを感じるフィアット500Rの売れ行きはあまり芳しいものではなかったようで、1975年の生産終了までにラインオフした台数は500F/500Lよりも少ない33万4000台に留まった。 『All Japan FIAT&ABARTH 500 Meeting』には歴代主要モデルが勢揃い! 日本でも大人気の2代目フィアット500は、イタリア車のオーナーズミーティングでは定番の車種であり、地方の小さなイベントでも必ず1台は見かけるほどのメジャーな車種である。 しかしながら、2024年11月4日(月)に開催された『2024 All Japan FIAT&ABARTH 500 Meeting』では、歴代の主要モデルが勢揃いしており、このような機会はそうそうあるものではない。今回エントリーしていた車種は、プリマ・セリエとジャルディニエラこそ見かけなかったが、500D、500F、500L、500R、そしてアバルトと、そのラインナップの豊富さに感心させられた。 実際にこの目で各モデルの違いを検分することは意義深く、また、エントリーしていたそれぞれの車両にオーナーの個性が色濃く反映されており、1台として同じ仕様が存在しなかったことも印象深かった。 こうした貴重な体現ができるのも『All Japan FIAT&ABARTH 500 Meeting』ならではのことだろう。そうした意味ではフィアットやアバルトのオーナーだけでなく、2代目フィアット500に興味や関心を持っている人ならば、会場を訪れる価値があるだろう(エントリーはフィアット&アバルト車限定だが、それ以外の車種のオーナーは場外駐車場にクルマを停めれば見学は自由だそうだ)。 次回の開催日程やイベント概要については、今のところ主催者からアナウンスはないが、おそらくは2025年も秋頃に同じ場所での開催になるものと思われる。今回参加できなかったフィアット&アバルト車のオーナーはもちろんのこと、イタリア車が好きな人ならぜひ次回こそ足を運んでみてはいかがだろうか?
山崎 龍
【関連記事】
- 限定車やカスタムカーも参加!『足利モーターフェス2024』の最多エントリー車はフィアット500&アバルト500シリーズだった!?
- フィアット600eのデザイナーが語るイタリアらしさの神髄【イタリア車のデザイン探訪】
- 限定50台中2台が集合!? フィアット&アバルトのイベント「CIAO!FesTrico」に参加【フィアット500PINK!オーナーレポート vol.4】
- スバル360より小さい!? イタリアンバイクブランドのフランス製軽自動車「ベスパ400」は知ってる?【ホンダコレクションホールで見つけた希少車】
- ヤング"ルパン"を描いた『LUPIN ZERO』は、宮崎 駿監督による名作『カリオストロの城』につながる!? クルマから深読みする『ルパン三世』シリーズ!