「あの人の炎はもう消えかかっている」――鳴らない電話、NYの空を見上げピート・ハミルとの別れを覚悟した
初めて聞いた、弱気な声
10日後にようやくピートから電話がかかってきた。彼はロサンゼルスのウエストハリウッドにあるキッチン付きのホテルにいて、胃痛でひどく苦しんでいるといってきた。 「カンヅメになって胃の痛みを抱えたまま書いているんだ。背中にも痛みが走る。ホームシックになって、ぼくの家や本が無性に懐かしい……」 初めて聞く弱気な声だった。 「今週末までに書き終えることができなかったら、日曜日にこっちへ来てくれないか? 空港まで迎えにいくよ」 数日後、娘から電話が入って、ピートは日曜日に帰ってくることになったという。夜になってロサンゼルスに電話が繋がると、だいぶ元気な声に戻っていた。 「日曜日の便は夜8時50分、ケネディ空港着になるよ」 一足先にバスでウエストハンプトンまで行って、彼の家で帰りを待っていてくれないか、といってきた。
「眠れない」――暗い表情をしたピート
ウエストハンプトン・ビーチの家に帰ってきたピートと40日ぶりの再会。あの厚い胸も大きなお腹も優しい目もすべて元のままだった。飛びついてキスするとそれまでの不安や憤りもすべて吹っ飛んでしまった。 「これからはニューライフを始める。約束するよ。1日5時間だけ働く。ほら、よくインタビューで作家がいっているじゃないか。そうだ、フロリダへ行こう。ビーチで太陽を浴びながら、ぼくは小説を書く。君も書く。そうしよう」 彼はニューライフについて眠るまで話していた。 夜中に目を覚ますとベッドにいなかったので驚いて見に行ったところ、居間で本を読んでいた。いろいろ考えごとがあって、眠れないという。 本を置くと深刻な顔つきで、それまでに見たこともないような暗い表情をしていた。本に集中できないと苛立ち、立て続けにタバコを吸っていた。
別れの予感
それから1カ月、ピートから電話してくることはなかった。こちらから電話しても、食事に出ていると娘が答える。数日後、ミスター・ハミルはボストンに出かけています、と秘書がわたしの留守電にメッセージを残していた。 わたしは仕事でも追い込まれていた。アシスタントのアメリカ人を3名に増やし、写真担当をニューズウィークのフォト部門から紹介してもらって1名雇い、という具合に支局の規模が大きくなるにつれ、わたしの責任も重くなってきた。 ニューズウィーク側の日本版担当者との関係も難しかった。彼女が突然激昂しても、なぜ怒っているのかわからないこともしばしば。どう対応して良いものか悩む日が続いた。 帰宅してがらんとしたアパートにひとりでいると、次から次へと自問を続けてしまう。今やっていることが将来プラスになるのだろうか。わたしのやるべきことは他にあるのではないか。自分のいちばん大切なものを売り渡しているのではないか。ふと、とんでもないところへ来てしまったと思った。日本に留まって次の本を書いていたほうが良かったのかもしれない。初めて後悔した。 米国社会というのはパートナーと一緒に出かけるのが当たり前なので、ひとりになってパートナーがいないと何もできない。日本にいたときにはどんな飲み会でも打ち上げでもひとりで行くのが当たり前だった。おかしなことに女性という立場で仕事をしていると、日本ではもっとずっと自由だったことを思い出した。 週末に思い切って電話すると珍しくピートが出て、すぐにコールバックするといったきり、1時間半待ってもかかってこなかった。次の週、同じことがまた起こった。わたしと話しているのに他の電話が入り、コールバックするといったのにかかってこなかった。彼からの電話を待ち、すっぽかされることがいちばん辛かった。