環境倫理から考える ── 果たして交雑ザル57頭殺処分は妥当だったのか
生物の擬人化という人間の性向
さらに言うならば、生物の擬人化という人間の性向は、全ての種に対して平等に向けられているわけではなく、より「共感しやすい」生物種へ、例えば微生物よりも肉眼で見える生物、植物や菌類よりも動物、無脊椎動物よりも脊椎動物、そして魚類・両生類・爬虫類よりも鳥類および哺乳類に対して強力に作動するという、一般的な傾向が存在するのは明らかです。 先に「痛覚主義」について触れましたが、「表情や声・行為を通じた苦痛の表明」とは生命への脅威に曝された生物が示す反応の在り方の一つであって、他にも「特定の化学物質の外界への放出」といった在り方も想定されます。しかし私たちヒトは前者に対しては容易に理解し共感することができますが、後者についてはそうではありません。そこに「痛覚の有無」を尊重の基準とする考え方が受容される条件が存在するのであって、この点において痛覚主義は極めて「人間中心主義的」な思想であると言えるでしょう。
人間による管理下にあるサルを殺処分することが本当に必要であったのか
最後に今回の事態についての、私なりの評価を述べることにしたいと思います。アカゲザルとニホンザルの交雑個体を生態系から除去する活動そのものは、それによって遺伝的多様性が保全され、結果として生物進化に関わる情報が保存される可能性が高まるのであるならば、それは必要なことであり個体の生命を奪う結果になってもやむを得ないと、私は考えます。 ただしその場合も、遺伝子攪乱を引き起こさないように去勢・断種 ── これはペットに対しても普通に行われます ── した後に放獣するであるとか、施設で飼育するなどの可能性を追求し、殺処分においてもその方法について十分に考慮するなど、「動物個体の苦痛と生命の喪失」に同情し、痛みを感じる人間の心に対する配慮が求められます。 しかし一方で、すでに人間による管理下にあるサルを殺処分することが本当に必要であったのか、はなはだ疑問です。現に飼育されているわけですから、捕獲された野生個体の場合のように「殺さずにおくための膨大な追加コスト」がかかるとは考えられませんし、また万が一の脱走に備えて、上述のような遺伝子攪乱を防止するための処置をとることも十分に可能です。 『朝日』の記事は「絶対に外へ逃げられないような施設での管理が難しいなら、飼育しているだけで法律違反になるので、殺処分はやむを得なかった」との環境省の担当者の談話を掲載していますが、研究や教育を目的とした特定外来生物の飼育については、特別の許可の取得と施設整備を前提として承認されているわけですから、むしろ動物園という施設の性格をも考慮に入れて、交雑ザルとニホンザルの行動の比較研究や、遺伝子攪乱についての市民への情報提供のための貴重な機会として、必要事項をクリアした上で飼育を続けるべきだったと思います。 さらに言えば動物園には子どもが多く集まりますし、子どもたちは一般にサルを見るのが好きですから、「なんにも悪いことをしていないのに、おさるさんたちが殺された」という出来事が、子どもたちの心にどのようなインパクトを与えたのか、大変気になるところでもあります。 そういったことを考慮するならば、たとえ動物園や行政側の事情がいろいろあったのだとしても、交雑ザルを殺処分した今回の処置は妥当ではなかったというのが、私の意見です。