環境倫理から考える ── 果たして交雑ザル57頭殺処分は妥当だったのか
「遺伝的多様性を人為的に撹乱すること」への認識共有が必要
ヒトすなわちホモ・サピエンスはそれ自体が一つの生物種として、生命共通始祖に端を発した40億年に近い進化の歴史を背負った存在です。そしてヒトの祖先たちは生態系の構成要素として他の生物種と様々な関係を取り結ぶことによって、初めて生き延びることが出来たのであり、それが子孫としての今日の私たちの存在を可能にしています。 ということは、ヒトの進化の解明は他の生物種の進化の解明抜きにはあり得ないということになります。また道具の製作や火の使用などによって、周辺の自然環境を意識的かつ能動的に改変する能力を獲得して以降は、祖先たちの行動が周囲の生物種の進化や分布に影響を与えているはずですから、そのような生物種の進化史を解明することで、ヒトの活動の歴史を探究することも可能になります。現にヒトにつくシラミの種の間の遺伝子構成の異同の解析を通じて、人類が衣服を身につけ始めた時期を推定することができないか、という研究も行われているのです。 さらに知的関心のみならず、より「実利」的な面からもアプローチすることが可能です。例えば、人間を苦しめるアレルギーや癌といった病の原因の所在をヒトの進化の過程に探り、そこから治療法など対処を考えようとする「進化医学」が進んできています(その到達点をわかりやすく示してくれたのがNHKスペシャルの『病の起源』だと思います)。 さらには、ヒトの心に共通して存在する特徴的な傾向を進化論的に解き明かそうとする「進化心理学」も成果を挙げているようですし、それを踏まえた上で倫理や道徳といった社会的規範の基盤と起源を探ろうとする「進化倫理学」さえ登場しています。こういったヒトの進化をめぐる諸科学の進展に対しては、少し長い目で見なければならないのかもしれませんが、人類が直面している様々な課題の解決への参考となり得る重要な情報の獲得を期待できるでしょう。 ですから、「遺伝的多様性を人為的に撹乱することは、貴重な情報に満ちた遺跡を損壊するに等しい行為だ」という認識を、皆が共有するべきではないでしょうか? 「何があっても絶対に破壊してはならず、壊されたものはいかなるコストをかけてでも絶対に復元されなければならない」とまでは言えないのでしょうが、破壊につながる行為が本当に社会にとって、どうしても必要なものであるのか、問題が生じた場合の責任の所在はどこか、破壊を最小化するための方法は何か、そして復元の展望や手法さらにはコストといった課題について熟議すること、さらに撹乱の対象となる遺伝的多様性そのものについての可能な限り綿密な調査を行うことが、求められる当然の前提であると私は考えます。