環境倫理から考える ── 果たして交雑ザル57頭殺処分は妥当だったのか
人間と生き物とのアンビバレントな関係確認の必要
他方、生物個体の生命の尊重という問題提起についてですが、このことを考える前提として、私たち人間と生き物とのアンビバレントな関係を確認しておく必要があります。私たちは生き物を自らの資源として使役し、食材や実験材料として扱い、さらには愛玩や鑑賞の対象として消費する一方で、資源化されるまさにその生物種 ── たとえばブタ ── に対してさえ、しばしば感情移入し、共感や同情を覚え、まるで人間に対するかのように評価したり接したりします。 したがって個人差はかなりあるとは言え、生き物のおかれた状況や扱われ方は、場合によってはそれに接する人間にネガティブな精神的インパクトを与えます。そのようなインパクトによる精神的ダメージの回避や軽減は「人間の利益」の重要な構成要素であって、そのための文化的装置として慰霊の儀式や感謝の祭り・生物の取扱いに際してのさまざまなタブーや掟といった習俗が人間によって創出されてきました。そして生物個体の生命の尊重を呼びかける思想は、生物に対する後者のスタンスを理論化したものであると理解されるのです。 このような捉え方は「人間ならざる存在を道徳的配慮や権利承認の対象にすべき」という問題意識からすれば浅薄な見地だということになるのでしょうが、社会的合意の形成という観点からすれば、事を「人間の利益」の問題として扱うのは不可避であると私は考えます。 なぜなら、生物の資源化と擬人化というアンビバレントな関係のあり方やその捉え方が、個々人さらには文化によって異なる ── クジラやイルカがその好例でしょうが ── 以上、合意形成のためには、特定の個人あるいは文化のそれを原理原則として人々に対して権力的に強要することを認めるのでない限り、個々人の利益としての「心の痛みの回避・軽減」のための相互配慮の必要性を、社会さらには人類共通の了解事項にしていく他ないからです。 例を挙げるならば、イヌを食べる人とイヌを愛玩する人がともに社会を構成する ── 真の意味での「多文化共生」とは、そのような要素も含まれると私は考えます ── ためには、イヌをめぐって異なる価値観を持つ人々が、互いの「心の痛み」に配慮した言動を取る必要があるということなのです。