二十歳のとき、何をしていたか?/庄司智春 NSC東京のトップ・オブ・トップ。 ネタにも遊びにも情熱を注いだ、 熱くて〝激イタ〟だったあの頃。
就職3日で早くも挫折。芸人になろうと決意した。
もう約15年も前の話だけれど、2009年4月、芸人がネタを披露する『爆笑レッドカーペット』での庄司智春さんが残した衝撃が忘れられない。「筋肉ダービー」というユニットで出演し、小島よしおさんやサバンナの八木真澄さんがギャグを披露するなか、全力で「ミキティーー!!」と叫んで大爆笑をさらったのだ。今や鉄板となった雄叫びは、これが初出し。司会の今田耕司さんは「婚約者の名前を呼んだだけでしたね」とツッコんだけど、ようやく公に交際を宣言できた庄司さんの魂の叫びに見えたし、生き様も笑いになる芸人のカッコよさがあった。そんな庄司さんは、小さい頃からお笑い好きなシティボーイだった。 【取材メモ】服好きな芸人は多いが、2003年に雑誌『Boon』の表紙を飾った第一人者が庄司さんだ。 「『8時だョ!全員集合』より『オレたちひょうきん族』のほうがお笑い知ってるよな、みたいな小学生でした。光GENJIの真似をする、目立ちたがりのひょうきんな子。とんねるずさんを見て芸能界に憧れましたけど、なれるわけないし、プロ野球選手になるのが夢でしたね」 小学生で地元のチームに入り、阪神タイガースを応援し、実業高校に進学して野球部に所属。野球漬けの日々を送った。 「流石にプロにはなれないし、大学に行くなら一浪は当然だろうと。でも実家はそこまで裕福じゃないから、就職することにしました。毎年野球部から何人かお世話になっている車のメーカーが『庄司くんだったら』と言ってくれて」 社会人になった庄司さんだが、入社3日目にしてショックを受ける。 「同期には四大卒、短大卒、専門卒がいて、特に四大卒は『やったるぜ!』とキラッキラして見えたんです。高卒の自分は隅っこにいるのに、職場の綺麗なお姉さんは四大卒とばっかり話してる(笑)。全部見えちゃったんです、これからのポジションが。転職してどこに行ってもこんな感じだろうし、それなら子供の頃にぼんやり憧れた芸能界に挑戦しようと」 やると決めたら即行動。会社に勤めつつ、劇場に足を運んでみることにした。 「初めてホンジャマカさんのライブを見に行ったんです。痛いダウンタウン信者だったので、まあ見てみるか、みたいな失礼な感じだったんですけど、登場した恵さんを見て『本物だ!』って感動しちゃって(笑)。もうコントが面白すぎて、ずっと爆笑してたんですよ。ナインティナインさん目当てで見に行った銀座7丁目劇場でも、知らない芸人がめちゃめちゃ面白い。そこから気持ちが加速するんです。なりたいなりたいって」 ナベプロ(現・ワタナベエンターテインメント)にネタ見せ会があると知りコンビを組もうとしたが、地元の友達も高校の同級生も全滅。大阪にある吉本興業の養成所NSCに入ろうかとも考えたが、標準語はバカにされると思い断念。そんなとき、オーディション雑誌で「NSC東京1期生募集」の広告を発見する。1995年、東京にNSCがやってくる! 「これだ、これしかない! と思いました。大阪の1期生がダウンタウンなんだから、東京の1期生になれば俺もダウンタウンになれる。そう本気で思ってオーディションに行きました。グループ面接ではいろんな人がいて、服をバッと脱ぐと油性マジックで乳首をぐるぐるに描いていた女の子も。冷静に『着てください』って言われてましたけど(笑)。僕はネタもないので『コンビを組みたいです。相方と面白いことやります』と言っただけ。でも受かったんですよね。それで会社を辞めてNSCに入りました」