二十歳のとき、何をしていたか?/庄司智春 NSC東京のトップ・オブ・トップ。 ネタにも遊びにも情熱を注いだ、 熱くて〝激イタ〟だったあの頃。
「やってみっか」でコンビ結成。 NSC卒業後は銀座7丁目劇場へ。
募集に500人以上の応募があり、半数の約250人が合格。1年目の東京NSCってどんな空気だったんだろう。 「銀座7丁目劇場の舞台と客席が教室でした。放送作家さんにネタ見せをして、ボイストレーニングとダンスを習う。みんなダウンタウンさんを真似て『ダンス寒いなあ』とか言って出席率が低くて(笑)。僕は仲いい芸人もいるから行こっかって感じでわりと出てました」 ピンで入学した生徒たちは、コンビを組むために積極的に声をかけ合った。 「何人かに『組まない?』と言われて、モテモテだったんですよ。俺も値打ちこいて『考えさせて』とか言って(笑)。その中に品川(祐)がいて、『ネタ書いてきたからやらない?』って。でも俺、そのタイミングで地元の友達と前々から計画してた伊豆旅行に行っちゃったんです。あれだけ意気込んで入ったくせにね。帰ったら品川は別の子とネタをやってたから、ああこの人とコンビ組むんだなと。切り替えて授業のたびに相方を替えてました」 しかし、品川さんは相方とウマが合わず、コンビは解散。ナベプロに移ろうか悩む品川さんに、同期の高尾山さんが「辞めるなら庄司くんとやってみたらいいんじゃない?」と声をかけた。 「忘れもしない『森永ラブ』ですよ。品川がハンバーガーを齧りながら『やってみっか』って。早速ネタ合わせをして先生に見せたらウケて、お客さんの前でやる1分ネタライブでもアンケート1位に。それで選抜クラスに入りました」 今でこそ温和な品川さんも、当時はギラギラしていた。3歳年上の相方を、庄司さんはこんなふうに見ていたそう。 「ある日、基礎クラスの授業前に『お前ら才能ないんだから辞めろ!』って叫んでる品川を見たんです(笑)。基礎クラスの子にしてみれば一回ウケただけでいきがってんじゃねーよって感じでしょうけど、でもなんだろう、ダウンタウンさんの影響でお笑いのカリスマは毒っ気があるものと思ってたし、相方がかますのを『しびれる~!』と思って見てました(笑)」 卒業後、銀座7丁目劇場のゴングショー「お笑い虎の穴TOKYO」に挑戦しストレートで合格。レギュラーになり、ロンドンブーツ1号2号と出会う。当時すでにテレビで人気だったロンブーが登場すると、劇場が満員になったという。 「はあ? NSC東京? みたいな先輩もいたと思うんですけど、ロンブーさんは『初めて後輩ができた!』ってかわいがってくれたんです。最初は社交的な品川が飲みに行き、『庄司もいいすか?』って誘ってくれて、やがて僕は(田村)淳さんとよく遊ぶように。もうすべてを教わりました。スタッフさんとの話し方、前説のやり方、人付き合い。さらにはクラブも、コンパも、ナンパも、すべてです。だから僕も淳さん同様、テレビに出るようになったらすぐ渋谷のTSUTAYA前に行って、遠くまで見渡せる高い所に立って女の子を探してました(笑)」 まだ関西の色も薄く、劇場で興った笑いがテレビへと移りゆく黎明期。そのど真ん中にいた自分を一言で表すなら? 「激イタでしょう(笑)。ネガティブじゃなくてポジティブな激イタ。品川がネタを書いてるのに根拠のない自信がありましたから。よくあんなにエネルギーがみなぎってたなって思います。先輩に呼ばれたら出かけて、芸も遊びも全部吸収して。熱量も高かったし、あの頃のおかげで今があると思います。だって淳さんと出会わなければ、もっと言えば淳さんが渋谷109の前でミキティを見つけなければ、あんなにかわいい奥さんと結婚できなかったですからね」