『光る君へ』で道長と対立<三条天皇>。和泉式部を愛人にした弟二人は早逝。すけ子と四男二女をもうけ、18歳下の妍子とも結婚を…「地味な東宮」の即位が宮廷に何をもたらしたか
大石静さんが脚本を手掛け、『源氏物語』の作者・紫式部(演:吉高由里子さん)の生涯を描くNHK大河ドラマ『光る君へ』(総合、日曜午後8時ほか)。ドラマの放映をきっかけとして、平安時代にあらためて注目が集まっています。そこで今回は三条天皇(居貞親王)について、先日『女たちの平安後期』を刊行された日本史学者の榎村寛之さんに解説をしていただきました。 賢子が心惹かれる双寿丸。その後捕まえた盗賊をどうしたかといえば、恐らくドラマ前半で<消された>あの人同様に… * * * * * * * ◆一条朝の時限爆弾「居貞親王(三条天皇)」 一見平和に見えた一条朝には時限爆弾がありました。それは一条天皇よりも4歳年上の東宮、居貞親王(のちの三条天皇)という存在です。 平安時代のここまでを見ても、東宮が天皇より年上という例は一度もありませんでした。当然と言えば当然のことです。 当時の貴族社会は先例を何より重視しました。 そのため、周囲の貴族たちから、居貞親王は「あまり望ましくない東宮」であり、「なんだか収まりのよくない人」と見られていた可能性が高いのです。 それでもこんな異例の事態が起こったのは、寛和2年(986)に、円融系の一条天皇がわずか7歳で即位した時、男子の親王が居貞親王(11歳)、為尊親王(10歳)、敦道親王(6歳)しかいなかったからです。
◆東宮としての居貞親王 3人はいずれも冷泉天皇の皇子であり、母は藤原兼家の子で道長の同母姉にあたる女御藤原超子。 そのため、すんなり長男・居貞親王が東宮になりましたが、この時、超子はすでに亡くなっており、居貞親王は兼家の邸宅だった東三条殿で育つことになります。 当時のことですから、一条天皇が満足に育つとは限らず、いわば兼家の権力維持のための保険だったともいえます。そのため、兼家は居貞に娘の綏子(やすこ)を嫁がせますが、兼家が亡くなると彼女への寵愛は薄れたようです。 兼家の跡を継いだ道隆は、正暦六年(995)に娘の原子(定子の妹)を居貞へ嫁がせます。 しかし原子は、兄の伊周が居貞の兄・花山上皇とトラブルを起こして失脚、姉の定子中宮が出家することになる長徳二年(996)の「長徳の変」の少し後、長保四年(1002)に急死しています。 結局、二人とも居貞の男子をもうけることはできませんでした。 そして道隆に代わって政権を握った道長は、一条が順調に成長したせいか、一条天皇に嫁いだ彰子を大事にして、三条と婚姻関係を作ることはありませんでした。 つまりこの時点で、冷泉系に摂関家出身の親王ができる可能性はなくなっていたのです。
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