【長嶋茂雄は何がすごかったのか?】 『プロ野球ニュース』の名司会者・佐々木信也が語る"ミスタープロ野球"<前編>
佐々木 そうでしょう。三遊間の打球を長嶋が捕って投げるとファンが喜んだものです。でも、いつもそうじゃない。「あいつ、気が向かないと捕りにこないんだよ」という広岡さんの嘆き節を聞いたことがあります(笑)。 ――佐々木さんは1956(昭和31)年に高橋ユニオンズに入団。その後、大映ユニオンズ、毎日大毎オリオンズで3年間プレーされました。 佐々木 昔はセ・リーグとパ・リーグでは、人気の面で大きな差がありました。僕のいたパ・リーグの試合はお客さんが少なくてねえ。セカンドのポジションから数えられるほどでした。当然、ヤジもよく聞こえてきました。 日生球場で行われた近鉄バファローズとの試合で僕が3本ヒットを打ったんですよ。4打席目には近鉄側のスタンドから「佐々木、もう打たんでくれ! 俺の妹をくれてやるから」って声が聞こえて(笑)、力が抜けて打てませんでした。 ――当時、選手にFA権は与えられていませんでしたが、「巨人でプレーしてみたい」という気持ちはありませんでしたか。 佐々木 巨人戦はいつも満員でしたけど、そう思わなかったですね。ただ、電車で移動する時に巨人の選手たちと一緒になることがありました。彼らはグリーン車で、われわれは普通車で。それはわびしかったけどね。 パ・リーグは、のどかでよかったですよ。川崎球場のスコアボードの下でファンが麻雀をしているのを見たこともあります。 私が現役だった1950年代は選手の給料は手渡しでした。球団のマネージャーが来て、ひとりひとりを呼ぶんです。封筒に入った札束の厚さでそれぞれの給料がわかる。山内和弘など5、6人のスター選手は厚みがあるから立つんですよ。少ない選手は吹けば飛ぶような感じでした。長嶋は間違いなく、それ以上だったでしょうね。 次回、後編の配信は12/14(土)を予定しています。 ■佐々木信也(ささき・しんや) 1933年、神奈川県出身。湘南高校時代には甲子園で優勝し、その後慶応大学で二塁手として活躍した後、1956年に高橋ユニオンズに入団。1959年の引退後は野球解説者に転身し、1976年よりフジテレビの『プロ野球ニュース』の司会者に就任、ソフトな語り口でファンを魅了。プロ野球のファンを増やし、ファン層を拡げた功労者として昭和プロ野球ファンの記憶に残り続けている 取材・文/元永知宏