<義経=チンギスハン説>は本当にトンデモなのか?両者に共通する「時代」と「強さ」とは…可能性を徹底検証
◆女真(じょしん)族の交易 なぜだろう。やはり、鎌倉幕府が怖かったのか。それとも、武士の血が騒いだのか。 義経一行の連中は土着の武士ではない。坂東(ばんどう)武者のように土地を背負いつつ(農業をしつつ)戦っていた者たちではない。 義経自身、京都の鞍馬(くらま)で武者修行をして、奥州で馬術と剣術を磨き、源平合戦では各地を転戦して勝利してきた。 その義経と共にした武士たちは根っからの流れものなのだ。北海道にも根付くことなく北へ向かったと思われる。 しかし、ここからの義経一行の情報はかなり乏しくなる。それはサハリン(樺太<からふと>)に向かったからだと思われる。 当時、サハリンへ行くのは可能であった。ツングート系の女真族の人々が、北海道から中国大陸にかけて大規模な交易を行っていたからだ。 彼らについていけば、サハリンだけでなく中国大陸に渡るのも全く問題がなかっただろう。 実際、江戸時代に間宮林蔵(まみやりんぞう)はサハリンの北端からアムール川付近に上陸している。いまでも、林蔵が渡った海峡は間宮海峡として知られている。
◆「ハンガン」という共通点 ちなみに、アムール川の少し上流にハバロフスクがある。 そこの博物館には日本式の古い甲冑(かっちゅう)と笹竜胆(ささりんどう。源義経の家紋)が描かれた朱塗りの机があったという。 またアムール川支流のウスリー川の河口にあるナホトカの近くには、ハンガンという湾があり、その近くには500年以上も前の建築物に笹竜胆が描かれていた。 義経の正式な名称は判官(ハンガン)源九郎義経である。 偶然ということもあるが、義経一行が来た可能性も全く否定はできない。 その後の義経一行の足取りは、一旦ウスリー川を逆流し、アムール川に沿って内陸のチチハルに出て、そこから大興安嶺山脈(だいこうあんれいさんみゃく)を越えてモンゴル高原に入ったとなっている。 その過程にも上記したような義経一行の軌跡があるのだが、それもあくまで決定的証拠というより可能性としてあるというにすぎない。 しかし、だからといって、まったく可能性がないかというとゼロではない。 誰でも行ける場所なのだから、仮説としては荒唐無稽だが、物理的な可能性としてみればできなくはない。