「日本テレビの巨魁」正力松太郎は、なぜ東京新名所のテレビ塔を「入場無料」にしたのか
宣伝手段としての展望台
展望台は、高さ55メートルと74メートルの位置に設けられた。30人程度が一度に展望できる広さがあった。地上と展望台を結ぶ約80メートルのエレベーターは日本では前代未聞の高さであった。当初は保守点検用のエレベーターのみが予定されていたが、154メートルの高さを電波送信だけに用いるのはもったいないと考えた正力の一声で急遽乗用エレベーターに変更。東京を一望できる展望台が一般に開放されることとなった。 鉄塔に展望台を設置するにはいくつかのハードルがあった。当時の法律は、高さのある工作物に一般客が昇ることを想定していなかったのである。日本テレビは東京都と協議を行い、一定の配慮を施すことで展望台の設置が認められた。まず、安全対策として展望台の周囲に金網を張ることと、エレベーターの窓ガラスの面積を0.2平方メートル以下にすることが要求された。入場料を取らないことも条件の一つだった。のちに正力は、展望台の入場料を無料にした理由を「大衆への奉仕」と喧伝したが、実のところ、無償であることが建設の許可を得るための必要条件だったのである。 また、屋外かつ80メートルもの長さを持つエレベーターの開発にあたっては、風圧、防水等の対策にも苦労がともなった。エレベーターの完成は、本放送開始から遅れること約3カ月後の12月1日。完成式の後、正力の案内で来賓が展望台へ上り、10日から一般公開された。東京を一望できたことから、休日ともなれば観光バスが乗り付けて、東京の名所となった。 「東京新名所NTVのテレビ塔の展望台は朝七時半ごろから都内の小、中学の団体や、家族連れがどっと押しかけ十時すぎには六百人近くがやって来た。エレベーターは一回に十人ぐらい、台上は三、四十人ぐらいで一ぱいになるから順番がなかなか。受付嬢やエレベーターガールはテンヤワンヤ。 さて七十四メートルの展望台にのぼるとさすが寒いがはじめての子供たちは足元をガクガクふるわせながら『やあ、すげエやア』と目をみはる。もやに煙った大東京、大内山、日本橋のビル街、イモムシのような国電、暮の東京の営みを一望に文字通り“うわの空”の喜び方だった」(読売新聞1953年12月13日夕刊)。 新聞記事から当時の盛況ぶりがうかがえる。なにしろ、都心でこれほど高い展望の場はなかった。デパートの屋上が展望の場所となっていたが、高さはせいぜい30メートルだった。その倍以上の高さを持つ展望台は、新しい都市の体験を人々に与える場として受け入れられていった。 *** ところが、ライバルNHKも黙ってはいなかった。この年の11月には紀尾井町に高さ178メートルの鉄塔を完成させ、その後も両社のあいだで「巨大建築」をめぐる覇権争いが続くのである――。 ※本記事は、大澤昭彦『正力ドームvs.NHKタワー 幻の巨大建築抗争史』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。
デイリー新潮編集部
新潮社