「日本テレビの巨魁」正力松太郎は、なぜ東京新名所のテレビ塔を「入場無料」にしたのか
高さ154メートルの鉄塔
10月28日には日本テレビ放送網株式会社が正式に発足。社長正力松太郎、専務取締役に清水與七郎、取締役に五島慶太ら13名、監査役に奥村綱雄野村證券社長ら3名、相談役に藤原銀次郎と小林一三が名を連ねた。 こうして日本テレビの局舎と鉄塔の建設が始まった。鉄塔本体が132メートル、この上に送信アンテナ22.4メートルを載せて総高は154.4メートルに及ぶ。塔の総重量は約250トン。はじめはもう少し低いものを考えていたようだが、放送区域半径60キロメートルに届けるために必要な高さとして154メートルが導き出された。また、中継用のパラボラアンテナを設置する位置を決めるために、バルーンを使ったシミュレーションも行われた。80メートルの高さまでバルーンを揚げ、20メートルおきに旗をつけて、各所から見える旗の数で設置位置が決められた。 この時点で東京に100メートルを超える高さの自立構造物は存在していなかった。明暦の大火で焼失した江戸城天守は石垣を含めて約60メートル。1890(明治23)年に完成した浅草凌雲閣(浅草十二階)は52メートル。1936(昭和11)年に永田町の丘の上につくられた国会議事堂は65.45メートルだった。標高25メートルの愛宕山頂に立っていたNHKの2本のラジオ塔も45メートルにとどまる。 これまでにない高さを有する鉄塔だったこともあり、安全性、景観等、様々な観点から配慮が求められた。設計は清水建設が担い、建築構造学者である内藤多仲早稲田大学教授や武藤清東京大学教授等が専門家の視点で助言している。内藤は、愛宕山のNHKラジオ塔を設計したほか、のちに通天閣、名古屋テレビ塔、東京タワーも担当し、塔博士として知られることになるが、「構造上の事も大切だが非常に高いもので遠くから見えるものだから形の美しさも考慮に入れて設計する様に」とアドバイスした。 肝心の送信機とアンテナはアメリカのRCA製品が輸入された。アンテナ一式は1953(昭和28)年6月にようやく横浜港に到着。8月3日にアンテナが鉄塔に据え付けられた。20日に試験電波の送信を開始し、27日に本免許取得、翌28日に日本テレビ放送網の本放送が始まった。アンテナ設置から1カ月も経たない慌ただしさだった。 開局の日、千代田区二番町の局舎では盛大な式が催され、吉田茂首相をはじめとする政財界の要人や文化人等、2500名に及ぶ招待客が列席した。周辺の狭い通りには、自動車が200メートル以上の列をつくった。式は、正力日本テレビ社長の挨拶に続いて吉田首相、堤康次郎衆議院議長、河井彌八参議院議長、歌舞伎の中村吉右衛門(初代)、一萬田尚登日本銀行総裁(代読)、スポンサー代表の三輪善兵衛丸見屋(のちのミツワ石鹸)社長が祝辞を述べた。30分に及ぶ式はテレビで中継された。 正力は挨拶の中で、「何分にも受像機がまだ高価であるから、いますぐ多数の一般家庭にそなえることは困難である。そのためまず大型の受像機を街頭集合所に常置してテレビを大衆にとけこませ、しだいに家庭に普及させたい」と語っていた。いわゆる「街頭テレビ」だ。まだ海のものとも山のものともつかないテレビジョンを宣伝する手段として街頭テレビが実施された。なお、街頭テレビ自体は正力のアイデアではなく、日本テレビの創立を支えたアメリカ人技師のウィリアム・ホールステッドの提案によるものだった。 街頭テレビ以外にテレビ放送を宣伝する手段の一つが、鉄塔に設けられた展望台だった。