「日本テレビの巨魁」正力松太郎は、なぜ東京新名所のテレビ塔を「入場無料」にしたのか
二番町の土地と大谷米太郎
結局、市ヶ谷の土地は入手の目途が立たず、最終的に千代田区二番町の土地に落ち着く。 1952(昭和28)年8月11日、日本工業倶楽部で日本テレビの発起人会が開催され、千代田区二番町の早川千吉郎邸跡、約2200坪の敷地に放送局と鉄塔を建設する旨が発表された。 この土地は、先に見た旧陸軍士官学校跡地から南東に800メートルほど離れた場所に位置する。標高もほぼ同じ30メートル。場所としては申し分ない。周辺は、かつて将軍を守る旗本の屋敷が立ち並び、一番町から六番町までを総称して番町と呼ばれた。明治以降、武家屋敷は官吏や政財界の要人、文化人等が暮らす閑静な住宅街となっていた。 当時この土地は、大谷米太郎大谷重工業社長の所有地だった。大谷は正力と同じ富山出身。29歳で上京後、荷揚げ人足をはじめ、精米店等の様々な店に奉公した後、30歳で大相撲の世界に身を投じた異色の経歴の持ち主だった。鷲尾嶽のしこ名で幕下筆頭まで上ったが、けがで廃業する。力士としては大成しなかった。その後、酒屋や機械修理工場等を経営し、大谷重工業を設立した。工業化の波に乗って業績を拡大し、一代で財を成した実業家だった。 大谷は銀行から資金調達することがなく、現金主義を徹底することで知られていた。現金をドラム缶に詰めて浅草の自宅の庭に埋めていたとも言われる。また、手元にある現金を土地に替えた。1964(昭和39)年に開業した紀尾井町のホテルニューオータニの土地は1950(昭和25)年頃に手に入れていたが、使い道を決めていたわけではなかった。 そこに、正力から土地の譲渡を依頼されたのである。この時の経緯を大谷と正力が新聞の座談会で回想している。正力は、大谷に会うなり「この家をわしに譲って欲しい」と突然切り出した。一時移転していたとは言え、本社の土地を出しぬけに譲れとは無茶な話と大谷は怒る。しかし、正力からテレビ事業の説明を聞いて「よろしい、そういう話なら、日本のテレビのために、この家を立退きましょう」と譲渡が決まった。しかも、代金4700万円のうち、1000万円だけ現金、残り3700万円は日本テレビの株で持つと大谷は申し出て、正力を喜ばせた。 これだけ聞くと、同郷の成功者二人の涙ぐましい美談に聞こえる。しかし、正力の側近だった柴田によると、交渉はそう簡単には進まなかったようだ。 大谷は、既知の元新聞記者からある情報を耳にする。「日本テレビにテレビ放送の免許は下りない」と郵政大臣の佐藤栄作が漏らしていたのだという。当時、免許の許可権限は電波監理委員会が握っており、大臣にはなかったはずだが、電波行政を所管するトップの話に大谷は慌てた。早速、日本テレビへの土地譲渡を断った。これに対し正力は、免許を取得したらすぐに頭金1500万円を支払うと約束し、何とか大谷を説得した。大谷の言い値は坪2万円。2200坪で4400万円、これに大谷石の塀の代金1000万円を加えた計5400万円だった。ところが、この条件に清水與七郎をはじめとする日本テレビ幹部が反発した。坪2万円は高すぎるだけでなく、2200坪は広すぎる。庭園部分の800坪で十分というものだった。正力は、将来値上がりが見込めるために広すぎることはないと清水らを説得した。 その後、日本テレビに予備免許が下りると、大谷はバツが悪かったのだろう。4700万円に値引きした上で契約と相成った。しかも、うち3700万円は日本テレビの株で持つことになったことは前述のとおりである。