「日本テレビの巨魁」正力松太郎は、なぜ東京新名所のテレビ塔を「入場無料」にしたのか
1953(昭和28)年、日本初のテレビ放送でNHKに先を越された日本テレビは、すぐさま高さ154メートルの巨大なテレビ塔を千代田区二番町に完成させ、世間の注目を奪い返した。 【写真を見る】都心で最も高い建造物だった「国会議事堂」をはるかに凌ぐ「巨大鉄塔」
当時、都心で最も高い建造物だった国会議事堂(65.45メートル)をはるかにしのぐ巨大鉄塔は、いかにして建てられたのか。そして、その展望台はなぜ「入場無料」となったのか。 東洋大学准教授の大澤昭彦さんの新刊『正力ドームvs.NHKタワー 幻の巨大建築抗争史』(新潮選書)には、その経緯が詳しく書かれている。一部を再編集してお届けしよう。 ***
二転三転した設置場所
日本テレビの創設者である正力松太郎は、読売興業のビル(読売新聞別館)の5階ホールと事務所部分をスタジオ等に改装し、屋上に鉄塔を載せることを考えた。ところが、このビルに鉄塔や送信機の重さを支えるほどの強度はなかった。 次いで、スタジオと送信所の分離が検討される。日本テレビの設立構想が公表された1951(昭和26)年9月時点で、スタジオは読売新聞別館、送信所は都心のどこかに置くことが想定された。 塔の設置場所としては、神宮外苑や新宿御苑が考えられていた。しかも高さは300メートル。他社との共同利用も想定していたようである。この段階で、東京タワーのような巨大な集約電波塔が構想されていたことは注目に値する。おそらく日本テレビの技術顧問を務めていたチェコ系アメリカ人のウォルター・J・ダスチンスキーのアイデアだろう。しかし、神宮外苑も新宿御苑も、利用できる見通しがあったわけではなかった。早々に別の場所が候補となる。
翌10月に日本テレビが電波監理委員会へ提出した申請書によると、スタジオは読売新聞別館で変更はないが、送信所は市谷左内町に移っていた。正力の右腕として日本テレビの創立を支えた柴田秀利の話を踏まえると、市谷本村町の旧陸軍士官学校跡(現防衛省市ヶ谷地区)と考えられる。戦後、極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判が開かれた場所だ。のちに自衛隊練馬駐屯地市ヶ谷分屯地となるが、この時点では米軍が接収していた。 しかしなぜ市ヶ谷だったのか。テレビの電波を効率的に届けるには、送信場所の選定が重要となる。日本テレビによると、関東地方の人口分布を調査し、その中心を計算した結果、市ヶ谷がふさわしいとの結論に至った。だが、都心で高い鉄塔を設置できるまとまった土地は、公園や旧軍用地しかなかった。取得の可能性がある場所を手当たり次第に当った結果、市ヶ谷の旧陸軍用地に行き着いたのであろう。戦中、報知新聞の記者だった柴田は市ヶ谷の陸軍記者クラブに通い詰めていた。この記憶を思い起こし、高台の土地が送信所の設置場所には適切と考えたのではないか。 その後、広さや費用の問題から有楽町の読売新聞別館のスタジオ使用も断念され、結局、スタジオも送信所と同じく、市ヶ谷の旧陸軍士官学校跡地へと変更することになった。 柴田は、GHQの総司令官を解任されたマッカーサーの後任として着任したリッジウェイを訪ね、陸士跡の返還を直接要望した。数日後にリッジウェイに呼び出されると、要求には応えられない旨を伝えられる。市ヶ谷は在日米軍の中枢基地で、重要な情報通信施設が置かれているため、防衛上、移設することは困難だった。この時既に、GHQの本部が丸の内の第一生命館から市ヶ谷に移転することが決まっていたのである。司令本部は1952(昭和27)年7月に第一生命館を退去し、陸士跡へ移る。