「20歳下の紫式部と結婚」藤原宣孝のトンデモ求愛 父の為時と同僚関係、越前には宣孝の手紙も
■藤原宣孝の求愛をあしらう紫式部 何かと父とはタイプが違う宣孝のことを、式部はどのように思っていたのか。長く不遇だった父の為時がようやく越前守という官職を得ると、式部も一緒に越前へ。現地では、こんな歌を詠んでいる。 「春なれど白嶺(しらね)の深雪(みゆき)いや積もり解くべき程のいつとなきかな」(春ではありますが、こちらの白山の深い雪にさらに雪が積もり、いつ解けるかもわかりかねます) どんな状況で詠まれた歌だったのかは、詞書に説明されている。
なんでも式部が越前に下向した翌年、長徳3(997)年に「唐人見にゆかむ」、つまり、唐人を観に行こうと、式部に手紙を送ってきた人がいたらしい。「唐人」とは当時、若狭国に漂着していた70人あまりの宋人のことだろう。 その人はさらに「春は解くるものと、いかで知らせたてまつらん」と式部に伝えてきた。「春は解けるものだと何とかあなたにお知らせ申し上げたい」という意味になり、「君の心も私に打ち解けるべきだよ」というメッセージが込められている。
それに対して、式部が返したのが、前述の「春なれど~」の歌である。「あなたに打ち解けるなんていつの日になることやら」と、うまく相手をあしらっている。 この相手こそが、のちに結婚する宣孝だとされている。 宣孝の生年は不詳だが、長男の隆光の年齢から逆算して、天暦3(949)年頃に誕生したと推測されている。つまり、このときには47歳頃と思われる。式部は26歳頃なので、20歳ほどの年の差があったようだ。 宣孝には、すでに子をなした女性が3人もいたが、お構いなしに、式部への手紙攻勢はその後も続いた。あるときには、式部がこんな歌を返している。
「くれなゐの 涙ぞいとど うとまるる うつる心の 色に見ゆれば」 (紅の涙などというと、ますます疎ましく思います。変わりやすい心が、この色ではっきりと見えているので) 詞書の解説によると、宣孝の「文(ふみ)の上に、朱といふ物をつぶつぶとそそきて、『涙の色を』と書きたる人の返り事」とある。 手紙の上に朱を振りかけて「涙の色を見てください」と書いてきた人への返事……。宣孝もまた50歳手前にして、なかなかぶっとんだアプローチをしたものである。