クジラやイルカを解剖し続け2000体、海獣学者が受け取る亡き骸からのメッセージ
「野生生物、とくに海獣の病理研究は難しい。ストランディングでもいつ死んだのかもわからないし、その前にどうしていたのかもわからない。解剖しても腐敗していたら得られるものは少ない。研究者として食べていくことを考えたら、ためらうでしょう。でも彼女はいったん考えたら、ガッといってしまう。情熱だけで決められる。猪みたい」 一方で、田島さんのこういう側面も見る。 「すごく気を使う人なんですよ。誰かと一緒に何かやるというときに、向こうは何を求めているか、それに自分はどう応えたらいいのか、自分の結果がどうなるかとかすごく考えるんですね。だから大変な解剖の直前とかはすごく緊張している。それは対象が大きいからではなくて、一緒にやる人たちへの配慮です。ブツが大きいので大人数で解剖しますから、彼女はその具体的な作業の手順やらを一生懸命考える。自分がやりたいことにはキューと行く『猪突』なんだけど、『猛進』ではない」 いま田島さんから研究指導を受けている筑波大学修士1年の西間庭さん(27)は、ストランディングの現場に同行したときの様子をこう話す。 「みんなの士気を上げるのがすごくうまい。足場が悪くて大変な現場とかけっこうあるんですが、田島先生が『やるぞー』って声を掛けて雰囲気を作ってくれます」
山田さんは、2000年にとある現場に田島さんらを連れて臨んだときのことを思い出して笑った。 「海獣の研究者にはなぜか女性が多いんです。それで彼女らを連れて行ったら、地元の人に『なんかヘラヘラしておねえちゃんたち連れてきて、遊びかよ』みたいな冷ややかな雰囲気が漂ったんですね。それが実際に彼女たちがテキパキ働き出したから『すごいな』とみんな目を丸くして(笑)、とくに田島さんはおじさんを動かすのがうまいんですよ(笑)。『ちょっとお父さん、これお願いします』とか。フィールドワーカーとしてすごいと思いますよ」
海獣たちに忍び寄る、プラスチックごみの影
田島さんがいま取り組んでいるのは、冒頭で紹介したプラスチックごみの海獣たちへの影響だ。 「ストランディングの現場で彼らの死骸と向き合うたびに、『貴重な研究機会をくれてありがとう』と手を合わせる気持ちの一方で、なんで死んでしまったんだろうという気持ちもあります。自然の摂理の中で死ぬならいいんですけれど、調査すればするほど、人間社会の影響がもうバンバン垣間見えるんです。海のごみの7割は川から来るというデータがあります。ということは海ごみのほとんどが陸のごみ。自動販売機でペットボトルの水を買った瞬間から、私たちは海のことを考える必要があります」 それでも冒頭のザトウクジラの盲腸から発見されたプラスチックごみには驚かされた。プラスチックごみの海への流入という海洋汚染がストランディングに関係しているのではないか、という説が注目されている。プラスチックごみを海の生物がのみ込んで、消化器官や内臓を傷つけてそれ自体が死因になることもある。またプラスチック片には残留性有機汚染物質が吸着しており、これが体内で高濃度に蓄積されると、免疫力が低下することが知られている。 「今まで胃ばかり調べてきたけれど、今度は盲腸も調べないといけないわ」 コロナ禍で当然、海外の学会など全てストップした。上野の国立科学博物館では入場者数制限をし、研究体制も苦しい状況が続く。しかし誰も田島さんの「猪突」を止めることはできない。 --- 田島木綿子(たじま・ゆうこ) 国立科学博物館動物研究部脊椎動物研究グループ研究主幹。日本獣医畜産大学(現・日本獣医生命科学大学)卒業。東京大学大学院農学生命科学研究科で博士号取得(獣医学)。筑波大学大学院生命環境科学科准教授。近著に『海獣学者、クジラを解剖する。~海の哺乳類の死体が教えてくれること~』(山と渓谷社)。 神田憲行(かんだ・のりゆき) 1963年、大阪市生まれ。関西大学法学部卒業。師匠はジャーナリストの故・黒田清氏。昭和からフリーライターの仕事を始めて現在に至る。主な著書に『ハノイの純情、サイゴンの夢』、『横浜vs.PL学園』(共著)、『「謎」の進学校 麻布の教え』。最新刊は将棋の森信雄一門をテーマにした『一門』(朝日新聞出版)。