米取引の詳細報告書が出世の糸口 三井物産小僧から常務へ山本条太郎(上)
福井県出身の山本条太郎は、明治後期から昭和初期に活躍した実業であり、政治家です。のちに満鉄(南満州鉄道)総裁に就任し、大胆な改革を行ったことから「満州鉄道の祖」とも呼ばれています。 投資家としてのスタートは米取引で、徐々にその才覚を表していきます。今回は山本の投資家人生前半について市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。
少年時代の山本条太郎
三井物産常務から満鉄総裁になる山本条太郎の少年時代について伝記作家の小島直記が『夕陽を知らぬ男たち』で書いている。三井物産横浜支店で「条どん」と呼ばれ、使い走りの小僧になったころである。 「条どんは、小僧とはいえ、どこか犯しがたい目の光。仕事に骨惜しみしたことがないが、荷車を引いて町を通っている時、車をほうり出して小道にかくれたことがある。松平家(旧福井藩主)の家令笹川某に出会った時だ。父親武も旧藩士、家令の1人だったのである。条どんは今に見ろ、と歯を食いしばった」 また『財界物故傑物伝』はこう称えている。 「彼は剛毅不屈、また容貌魁偉(かいい)にして豪放磊落をもって鳴った。古美術に関する鑑識眼は専門家の域に達し、また国宝級の逸品を多数蔵していた」
米の厳しい品質チェックと商況、戦略をつづった報告書で異彩を放つ
山本が出世の糸口をつかむのは入社して1年余りたって本店で米の売買を担当するようになった時だ。当時、東京の米価は1石(150キロ)当たり5~6円で、政府は米の買い入れで米価の下落防止に懸命だった。1883(明治16)年、政府は三井物産に米の買い入れを命じた。この時、急用ができた先輩に代わって山本が買い入れのため千葉に急行する。 「山本は店から渡された3000円を胴巻きに入れ、みぞれ混じりの晩に番傘一本で厩橋から通運丸という船に乗り込み、翌日小見川(千葉と茨城の県境)に着いた。まだ小僧だから羽織は着られず、木綿縞の筒袖に角帯を締めた姿は貧弱だったが、意気だけはもう支配人にでもなったように揚々たるものだった」(野沢嘉哉著『大成功出世の緒口』) ここが初陣の勝負どころとみた条太郎は米俵の1俵1俵にサシを入れ品質を厳しくチェックした。現地では嫌がられたが、東京では極めて評判がよかった。そして毎日熱心に商況を罫紙に7、8枚も書いて、買い付けに対する作戦計画を添えて本店に送ると幹部連中も驚かされた。 山本の報告書は異彩を放ち、やがて社長の益田孝が知るところとなる。帰京すると社長が直に山本を引見した。全く異例のことだ。数日後、月給は2円50銭から5円50銭(一説には7円50銭)にはね上がった。そして手代見習席に昇進する。手代は番頭と丁稚小僧との中間に位置するが、三井物産のような大所帯になると、手代とひと口に言っても、手代1等席、同2等席、同3等席、同見習席と4段階に分かれていた。