米取引の詳細報告書が出世の糸口 三井物産小僧から常務へ山本条太郎(上)
米相場のもうけで調子に乗りすぎて、担当を外される
翌1884(明治17)年、青森地方の米穀の副主任として出張を命じられ、手代3等に昇格する。仲間から羨ましがられるスピードが出世で少々調子に乗りすぎたようだ。 「そのころ米相場の味を覚えて、こっそり店の金で相場に手を出し、運良く1.2年の間に3000~4000円の金をもうけるが、秘するより顕るるは早し。これが後になってばれて、彼の出世に一頓挫を来たすことになった」(同) いきさつはこうだ。1886(明治19)年のことだが、社長の益田孝や大番頭の馬越恭平が北海道に出張していて、青森に出張中の山本にも声がかかる。経営トップに接近するチャンス到来とばかり、1カ月にわたり益田社長一行に同行する。 そして重役の旅費等数千円を山本が立て替える。出張を終えて旅費精算に際し、会計課長が「これは少々怪しい」とにらんだ。月給15円の手代がこんな大金を持っているはずがない、というわけだ。根堀り葉堀り調べられた結果、米相場で大金を儲けたことがバレてしまった。会社の金を使い込んだわけではないが「どうも切れ過ぎる。危険な奴だ」というレッテルが貼られた。懲罰の意味で米担当を外され、石炭運送船の荷物係とは少々厳しい沙汰であった。一歩後退、二歩前進。
満州の大豆事業で、三国貿易の走りとなる
1890(明治23)年、三井物産は満州の大豆事業に着手する。この時山本は営口(遼寧者南部の河港都市)の出張員となる。満州全土で日本人は山本一人だったという。以来、約20年、南船北馬、中国における三井物産の事業拡張に山本の力が大いに寄与した。 山本は「郷に入れば郷に従え」で、中国服を着込み、弁髪(頭髪の一部を結んで垂らし、他をそり落とす髪型)姿で大豆や大豆粕の取引を拡充していった。 後年、三井物産の柱となる重要事業の素地を築いた。満州の産物をヨーロッパに輸出する三国貿易の走りとなる。=敬称略 ■山本条太郎(1867-1935)の横顔 1867(慶応3)年、福井県出身。5歳の時、一家は上京、条太郎は神田の共立学校に入る。のちにダルマ宰相と呼ばれる高橋是清が英語の教師をしていた。大学予備門(東大の前身)の試験に挑戦しようとしていた矢先、病気になり断念、14歳で三井物産に奉公する。米取引で大手柄を立て、出世の糸口をつかむ。満州での大豆事業でも実績を上げ、1897(明治30)年本社綿花部長となる。1909(同42)年常務に就任するが、1914(大正3)年シーメンス事件に連座、三井物産を退社、1920(同9)年衆議院議員選に当選、昭和2年満鉄(南満州鉄道)総裁に就任。