60代半ばで都心から郊外へ 「美学ある」団地暮らし 人生のアップダウンを経てたどり着いた「部屋」
「家に帰ってきて、土の匂いがするとほっとします。この街は私の育った場所で、13歳から26歳まで住んでいました。その後は港区の北青山や六本木にも長く住み、イタリアのミラノに住んだこともあります。いろいろな場所に住みましたが、60代後半になって地元に戻ってきたわけです」 重松さんは大学を卒業し、1980年代を社会人として生きた。バブルの好景気に恵まれ、充実したキャリアを重ねている。ここに住む前は家を購入することに興味がなく、ずっと賃貸で暮らしてきたという。
「かつて会社を経営していたこともあり、今でも商品開発アドバイザー、中小企業診断士、大学院講師など複数の肩書を持っています。そうしたキャリアのせいか、あるいはいつも旅をしたり、人を招いたりして楽しんでいるからか、順風満帆な人生だと思われがちですが、そんなことはないんです。実は50代で全てを失って、ゼロから再スタートしたことがあります」 ■バブル期以降のアップダウンを経て 重松さんの人生は波乱万丈だ。最初のキャリアは文化出版局、雑誌『ハイファッション』の編集者として。1カ月の残業時間が100時間を超える程のハードワークだったそうだが、バブルの時代ならではの、好景気のただ中でもあった。
「当時は仕事の合間に一流レストランで食事を取ったりもしたけれど、そこにいる誰かが払ってくれるような環境で、経費のことなんて気にしたこともなかったのです」 その後デザイン会社に転職し、新規事業開発に携わった。しかし婚姻関係にあったパートナーがデザイン提供などのファッション関連事業を起業し、その海外展開をサポートすることになる。 「夫に『会社を作るから、イタリアに行ってくれないか』といわれて。私もイタリアが好きだったので、彼をサポートするために3年ぐらいミラノに住んで、経営に携わっていました。
日本に戻ってから一瞬、デザイン会社に戻ったのですが、結局夫の会社が忙しくなってしまって、20年ぐらいその会社のマネジメントをしていましたね」 転機が訪れたのは2000年代、重松さんが50歳の頃だ。 「50歳のときに会社経営の失敗、そして離婚。仕事も家もお金も失って、それ以降はずっとひとり暮らしです。 働きながら53歳から中小企業診断士の勉強を始めて、大学院にも通い、59歳で中小企業診断士とMBAの資格を取得。今は商品開発アドバイザーの仕事や中小企業診断士として、さまざまな会社のコンサルタントの仕事をしながら、大学院で中小企業診断士の養成課程の講師をしています。