同級生が陰口「あいつはガリ勉」 高校で引退→教師の進路が一転…競技人生を変えた国体2日前の悲劇【インタビュー】
札幌新監督・岩政大樹はなぜ教員からJリーガーへと目標設定を変えたのか
「僕は両親のように教師になり、高校サッカーの監督として指導をするのが10代の頃の目標でした」 【写真】「本当に?」「凄すぎる」元Jリーガーが公開したハーバード大学スクールの卒業証書 北海道コンサドーレ札幌の岩政大樹新監督は山口・屋代島で過ごしていた学生時代に堅実かつ地道な将来ビジョンを描いていたという。そのために、山口県内屈指の進学校である岩国高校へ進み、最難関の理数科に在籍。そこで文武両道を実践していた。(取材・文=元川悦子/全8回の2回目) ◇ ◇ ◇ 「僕自身はどちらかというと授業についていくのに苦労していましたし、成績も真ん中くらい。際立った優等生だったわけではなかったですね。それでも何とか成績をキープしようと努力はしていました。 それがサッカーを続ける親との約束でもあったんです。休み時間や移動時間に勉強をしている姿を見て、『あいつはガリ勉だ』と同級生に言われることもあったけど、自分で決めた以上、両立するしかなかった。周りの目をあまり気にしない人間性もその時に養われたのかもしれないですね(笑)」 こう語る岩政監督は高校でサッカーに区切りをつけるつもりでいた。両親から「山口県の体育教師の採用枠がゼロに等しい」と聞いていたこともあり、数学の教師を目指すことを決めていたからだ。 となれば、大学の体育会でサッカーを続けることはマストではない。彼自身としては、高校3年だった1999年の熊本国体に出て、1回戦で松井大輔(Fリーグ理事長)や田原豊を擁する鹿児島県選抜と真っ向勝負を演じて、集大成を飾ろうと考えていたのだ。 「岩国高校が高校総体とか選手権に出るのは現実的に難しかったので、僕個人として山口県選抜入りし、全国レベルの大会に出るのがベストだと考えました。そこで同世代のトップである松井や田原と戦えればいい。それが当時の最終目標だったんです。 通常、進学校の生徒は夏前に引退して受験勉強にシフトするんですけど、僕は夏休みも部活動を続けて国体を目指しました。最終的にメンバーにも入った。ところが、大会2日前に骨折し、夢が断たれてしまったんです。 この時の不完全燃焼感は強かった。『このままじゃ終われない』という負けじ魂がヒートアップし、いきなり進路を変えて、関東大学サッカーリーグ1部の東京学芸大に行くという決断をしたんです。あの怪我がなかったら、大学で本気でサッカーを続けることはなかった。人生最大の転機だったと思います」 当初、視野に入れていた山口大学や広島大学もハードルが高かったが、東京学芸大学は全国から受験者が集まる難関国立大だ。秋から志望校を変更して現役合格するのはそう簡単なことではない。それでも、岩政監督は高校3年間の文武両道で磨いた学力と集中力を駆使して見事に受験をクリア。「数学の教師」という将来像を視野に入れつつ、学芸大に進んだのである。 2000年時点の学芸大は2つ上に堀之内聖(現浦和SD)らがいて、かなりレベルが高かった。そこで岩政監督は瞬く間に頭角を現し、1年で関東1部の新人王に輝くに至った。そこからは右肩上がりで、2年で全日本大学選抜入り、3年で2004年アテネ五輪を目指すU-22日本代表入りと一気に飛躍を遂げていく。 となれば、Jリーグ各クラブのスカウトが注目しないわけがない。本人としては中学・高校数学の教職課程を取っていて、教育実習にも行くなど、教師の道を完全に諦めたわけではなかったが、「一度しかない人生なんだから、サッカーの世界でチャレンジしてみよう」と思ったのだろう。気づいてみれば、教員になるはずだった男が2004年には鹿島アントラーズ入りし、Jリーガーの一歩を踏み出していたのだ。 「大学を出てプロになることを選び、10年以上プレーすることになりましたけど、自分の中には『指導者になりたい』という思いがずっと根底にあったんでしょうね。 おそらく多くのJリーガーは『サッカー選手になりたい』という気持ちで突き進んできたんだろうけど、僕は『チーム全体をどう動かすべきか』とか『誰をどう使ったら勝てるチームになるか』というように、全体を俯瞰して見たり、マネジメントすることに興味があった。 中学生の時は日常的に監督みたいなことをやらせてもらっていましたし、考えることが好きだった。結局、それを追求してここまで来たんですよね。今となれば、Jリーガーだった時間も『指導者になるための道の途中』という感覚ですね」 冷静に自己分析をしてみせた岩政監督。確かに教員も監督も「人のために何かをしたい」「世話をしたい」という気持ちがなければできない仕事。岩政大樹という人はそういう思いが非常に強いのだろう。 実際、仲間や後輩に対する面倒見のよさは折り紙付きだし、我々メディアに対しても選手時代から指導者になった現在に至るまでフラットな立場で接してくれる。日本代表、W杯経験者でそういうタイプの人材はそう多くない。彼が30代からJリーグ指揮官になったのも決して偶然ではないのである。 [著者プロフィール] 元川悦子(もとかわ・えつこ)/1967年、長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙や夕刊紙記者を経て、94年からフリーに転身。日本代表は97年から本格的に追い始め、アウェー戦もほぼ現地取材。W杯は94年アメリカ大会から8回連続で現地へ。近年はほかのスポーツや経済界などで活躍する人物のドキュメンタリー取材も手掛ける。著書に「僕らがサッカーボーイズだった頃1~4」(カンゼン)など。
元川悦子 / Etsuko Motokawa