明治維新「負け組」の心意気 「薩長」の天下、彦根藩出身者は冷や飯を 話の肖像画 ジャーナリスト・田原総一朗<15>
《閑話休題。寄り道して故郷(滋賀県彦根市)と祖母や両親の話を聞いた。江戸時代は井伊家(彦根藩)の領地(※幕末に井伊直弼(なおすけ)が大老を務めた)。よって明治維新以降は「負け組」の悲哀を味わうことに》 僕をかわいがってくれた(父方の)祖母の志(し)げは、明治7(1874)年に生まれた。なんと、西南(せいなん)戦争(※明治10年、下野した西郷隆盛らが九州で決起したものの、政府軍に敗れた)よりも前ですよ。 明治新政府は「薩長」の天下だったから(旧幕府側の)彦根藩出身者は冷や飯を食わされた。祖母の口癖は「絶対に役人(官僚)や軍人にはなるな!」。なったところで出世などおぼつかないからです。 いまだに「彦根出身」の国会議員は、あまりいませんからねぇ。僕が「在野」のジャーナリストになったのも祖母の教えが頭にあったからかな。 《井伊直弼に関する著作(『井伊家の教え』など)もある。世間では悪役イメージが強い井伊大老だが…》 井伊大老は、日米修好通商条約(1858年)を結ぶ決断をした。つまり「日米協調路線」を選択したわけですよ。 結局、井伊大老は桜田門外の変で暗殺されてしまうけど、強硬路線(攘夷(じょうい))を貫いていれば、日本は欧米列強の植民地にされていた可能性が高い。僕は英断だったと思いますねぇ。 《父、英次郎は明治35(1902)年の生まれだ。その年に結ばれた「日英同盟」にちなんで名付けられたという》 おやじはなかなかのハンサムでね。女性にもモテたらしいけど、残念ながら僕の顔は父に似なかったなぁ(苦笑)。 僕が物心ついたころには(父は)ひもづくりの仕事(田原製網製作所)をやっていた。元は母(登志江(としえ))の実家の家業だったが、母の両親が亡くなってから祖母(志げ)が継ぎ、さらにおやじが引き継ぐことに。 自宅前に工場があり、従業員は7、8人いたかな。ところが、僕が国民(小)学校3年生の秋、その工場は閉鎖を余儀なくされてしまう。戦争が激しくなって、原材料が軍需優先になり、民間工場には回ってこなくなったからですよ。それからの田原家の暮らしは大変。家財を〝売り食い〟して、何とかしのいでいたみたいですが、敗戦直前には、とうとう大事な仏壇まで売ってしまった。 おやじは、絵を描いたり、映画を見たりするのが好きで、あまり商売には向いていなかったと思うけれど、やはり戦争に翻弄された人生でしたね。戦争を知る最後の世代になった僕は「二度と戦争は起こしちゃいけない」と心に誓ったんです。
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