腹痛で作業を休んだ自分は生き残り、同級生は全員亡くなった 被爆60年経て決意「伝えなくては」。親友の遺品を前に、広島で語り続ける
今から79年前の1945年8月6日、アメリカ軍が広島市に原子爆弾を投下した。推計では45年末までに約14万人が亡くなり、放射線による被害は広範囲、長期間に及ぶ。 【写真】今も183人の遺体が閉じ込められている… 市民団体は「遺骨を日の当たる場所に出してほしい」 82年たっても政府が調査に後ろ向きな理由
広島市の原爆資料館はその10年後、1955年に開館した。今では週末ともなると外国人観光客のグループや修学旅行生らで長蛇の列ができ、2023年度の入館者は200万人弱と過去最多になった。 原爆の熱線で、その場にいた人の姿が影のように黒く残ったとされる「人影の石」の周辺など、近づけないほど混み合う展示も多い。資料館の収蔵品は約10万点。その中から2つの遺品と、それにまつわる話を紹介したい。それぞれの持ち主は12歳の少年と、3歳の男の子だ。(共同通信=小作真世、玉井晃平、年齢は取材当時) ※記者が音声でも解説しています。「共同通信Podcast」でお聴きください。 ▽亡くなった親友の母は言った「何で生きているの」 展示室に1体のマネキンがある。帽子、学生服、ゲートル、ベルトを身に着け、原爆で犠牲になった少年を思い起こさせる。 これらの持ち主は1人ではない。空襲による延焼を防ぐため建物を取り壊す「建物疎開」の作業中に、被爆し命を落とした中学生3人分を合わせたものだ。
このうちゲートルの持ち主だったのは、当時12歳の上田正之さん。上田さんの同級生で親友、そして自らも被爆者の中村富洋さん(91)は、人知れず深い悲しみを抱えてきた。 「もし彼が生きていたら」。今も心の中には、未来ある少年のままの「上田君」がいる。 原爆投下の朝、いつものように迎えに来た上田さんを、中村さんは腹痛で作業を休むと伝え見送った。 約40分後、すさまじい爆発音と閃光に襲われ、家が崩れ落ちた。中村さんはがれきの中からはい出し、火の手から逃げ惑った。 「本当の地獄。死ぬまで頭から消えない」。上田さんと遊んだ川は、瞬く間に死体であふれた。 2日後、たまたま出会った上田さんの母親にかけられた言葉に絶句した。「何で生きているの」。作業場にいた同級生らは全滅だった。「一緒に死ねばよかった」と自分を責めた。 戦後は原爆の話を避け、仕事に心血を注いだ。だが、生き残った後ろめたさは拭えず、惨状の記憶は消えなかった。