腹痛で作業を休んだ自分は生き残り、同級生は全員亡くなった 被爆60年経て決意「伝えなくては」。親友の遺品を前に、広島で語り続ける
被爆60年を迎えた頃、心境に変化があった。被爆体験の風化が叫ばれる中、「生かされた自分が伝えなくては」と修学旅行生らに体験を語り、上田さんの遺品がある資料館の案内を始めた。 中村さんは証言のたびに「資料館を見て」と伝えてきた。「核兵器の非人道性や悲惨さを肌で感じてほしい」と願っている。 ▽伝えたい祖父と、思い出したくない祖母。2人の思いを伝えるため語り部に マネキンと同じフロアに、さび付いた三輪車が展示されている。 三輪車で遊んでいた時に被爆し、3歳で亡くなった鉄谷伸一ちゃんのものだ。 伸一ちゃんの父親の鉄谷信男さん(1998年に88歳で死去)は、3人の子供を原爆で失った。長男だった伸一ちゃんの遺体は火葬せず、お気に入りの三輪車と一緒に庭に埋葬した。 1985年、鉄谷さんは親戚を集め、遺骨を掘り起こした。その場には、当時4歳だった鉄谷さんの孫、小西佳子さん(42)もいた。小さな頭蓋骨が、木の根っこに守られるように埋まっていた。まるで「天国の枕」のように見えたのを覚えている。
見つかった「伸ちゃんの三輪車」は後に資料館に寄贈され、広く知られるようになった。寄贈した鉄谷さんも体験を語り続けた。小西さんは、涙を流しながら語る祖父の姿を思い出す。その横で、祖母は決まって不機嫌そうだった。 小西さんが対照的な2人の思いを理解したのは、自身も3人の子を授かってからだ。「伝えたい気持ちも、思い出したくもない気持ちも今なら分かる」 小西さんは昨年、祖父母から受け取った平和への願いを伝えようと「語り部」活動を始めた。資料館に残る三輪車だけでなく、祖父母の思いも次の世代に届けたい―。知人の槙野未来さん(42)と平和活動のグループを立ち上げた。思い描くのは、子供と親が一緒に平和について考える場だ。「堅苦しくせず、私たちのやり方で命の大切さを伝えたい」と活動の形を模索している。 ▽200万人に迫る入館者、混雑対策の取り組み 原爆資料館の2023年度の入館者数は198万1782人で、これまでの最多だった19年度の175万8746人を超えた。