全部◎だけど…野球強豪校に次々落とされ 「横暴性が校風にあわない」とはじかれる 話の肖像画 元プロ野球選手・張本勲<5>
《ハンディを乗り越えて左利きへ転向、野球に目覚める》 野球を始めたのは小学5年生のときです。小学校時代から体は大きかった。家の近くに公園があって、近所の年上のお兄さんたちに「ソコを守ってくれ」と右用のグラブを渡され、ライトを守ったのが最初です。初めての打席でいきなり二塁打を打ったらしい。4歳のとき、右手をやけどして指が伸ばせない。ボールをうまくつかめない。だからずっと避けていたんですが、すっかり夢中になったんです。 私は右利きです。箸とか字を書くのは右手ですが、なぜか最初から左で打っていた。普通に打てました。ただ守りは右手のやけどの影響もあってうまく投げられない。だから小学6年生のとき、思い切って左投げに転向しました。ビー玉やメンコ遊びは左手でやっていた。意外にすんなりと投げられました。 スポーツといえば、小学校のころは水泳が得意でした。家の近くにある猿猴(えんこう)川でよく泳いでいました。続けるつもりでしたが、段原中学に入学したら水泳部がなかった。やむなく野球部に入ったんですが、それ以来、野球一筋です。 《プロへの憧れ…》 当時の広島はレベルが高かった。2歳上に翠町中の山本一義さんがいた。後に広島商から法政大に入り広島に入団して活躍された(現役生活15年、1308安打、171本塁打)。引退後、ロッテの監督もやられた方です。刺激を受けました。 プロ野球も〝のぞき〟に行きました。当時は広島市民球場ではなく、広島総合球場(通称・観音球場)です。お金がない。球場の外にある木に登って見た記憶があります。ある日、友人が広島遠征でやってきた巨人の宿舎をつきとめた。ホテルではなく旅館。そこも〝のぞき〟ました。選手たちがおいしそうな肉を食べてました。「お金を稼げて、うまいもんが腹いっぱい食える」って。苦労した母に親孝行したい。家を建ててあげたい。プロ野球選手になるしかないって思ったんです。 練習しましたよ。兄(世烈さん)が古タイヤを探してきてくれた。木にくくって毎日バットをたたきつけていました。おかげで2年生の秋、新チームになったとき、エースで4番を任されました。