デビュー10周年、小説家・上田岳弘の「本番」がはじまる!最新作『多頭獣の話』の「到達点」
失われた「塔」
桜井は自分の活動の失敗を認め、もはや深い「穴」に落ちていくことだけが望みだと言う。だがもともとはそうではなかったのだとも。〈僕の中にあったヴィジョンは穴ではありませんでした。穴とは逆のものです。とても高い塔。とてもとても高い塔の上で、僕は誰かと向かい合っている。そして延々と終わらない会話をつづけている〉。 桜井だけではない。思えば、『引力の欠落』の「「違うぜ系男子」のなれの果て」(どこか上田氏自身を思わせる)も、〈高い塔を建てる〉という想像を〈具体的に考え続けることで、僕はなんとか頑張ることができた〉のだが、いつしか〈塔の想像では頑張れなくなった〉と告白していた。『最愛の』の謎めく女性「ラプンツェル」も、最後に「塔」から降りてきた。『旅のない』の短編群での「塔」は希薄で、『K+ICO』では「塔」がまったく描かれない。 上田氏における「塔」の特権性について私はかつて書いたことがある(「小説の究極」)。「塔」は論理以前の「ヴィジョン」として氏の超越性を支えていた。それを失うとは何を意味するのか。 コロナ禍を経験したことで、不老不死や「シンギュラリティ」どころか、人類は1万分の1ミリのウィルスで大量死してしまう脆弱な存在であることがわかり、あらためて日常に寄り添っているうちに超越性が消えてしまい、「生きるに値しない世界」と「生きるに値する命」という、誰もが普通に考えて普通に忘れていくような問いに拘泥しているうちに元気もなくなってしまい、暗く深い穴をじっと覗き込む。残されているのは死んだあの子のところに行くことだけ。あるいは無根拠に優しい誰かの手──。 というような話であるはずがない。「塔」を求めた者たちすべてが脱落し、「人間」つまり「ロボット」が勝利した、そんな「失敗作」として私はこの小説を読んだ。小器用な成功を重ねるのではなく、10周年記念の最後に、きちんと失敗しておくこと。 織り込み済みの失敗ではない。コロナ禍という大量死の時代において、くだらない現代社会とそこに生きる人々に本気で塗れることで、人間としての絶望と希望をつかみ、その上でなお、それでは駄目なのだと再び太陽と地球と塔を目指すこと。それが上田氏の「本番」なのだと私は思っている。 【もっと読む】「自作のYouTuberが総出演!無意識から生まれた「神話」がはじまる」では、著者の上田岳弘さんによる『多頭獣の話』執筆秘話をお読みいただけます。 上田岳弘『多頭獣の話』 会社員からトップYouTuberに転身した元後輩の桜井君。またの名を、「YouTuberロボット」。IT企業の幹部としてプロジェクトに忙殺される日々を送る「僕」の前に、再び彼が現れた──。謎めいた「神話」がIT企業を舞台によみがえる、現代のカフカ的傑作!
大澤 信亮(文芸批評家)