戦争に翻弄された「87歳戦没者遺児」の知られざる歴史
なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。 民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が9刷決定と話題だ。 【写真】日本兵1万人が行方不明、「硫黄島の驚きの光景…」 ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。
コロナ禍と遺児三浦さんと、僕のツイッター
天国にいる硫黄島の兵隊さんたちが、三浦さんを守ってくれた。 そのとき、僕はそう思った。 新型コロナウイルスの流行が始まった2020年2月のことだった。当時、多くの人が感染防止のためマスクを買い求め、ドラッグストアなどの店頭からマスクが消えた。 僕が心配に思ったのは、政府の遺骨収集団に長年参加し、硫黄島報道を支えてくれている北海道恵庭市の三浦孝治さんのことだった。三浦さんは一人暮らしだった。マスクが買えなくて困っているのではないか。東京から電話をかけると、いつもの明るい声が返ってきた。 「酒井さん、大丈夫ですよ。家で探したら、遺骨収集団で使うために買っておいた防塵用のマスクがたくさん出てきたんです。だから当分、マスクには困りません」 2006年に出会った際、74歳だった三浦さんは87歳になっていた。耳が少し遠くなった以外はすこぶる元気だった。現役収集団員としては最高齢となりながらも毎年、硫黄島に渡っていた。100歳を超えても元気だろうな、と僕は思った。ご加護がある人だと思っていた。 その年の秋。北海道は札幌を中心に新型コロナの流行が深刻化し、東京支社の記者が交代で応援に入ることになった。僕はその一人となり、11月末から約2週間、札幌で過ごすことになった。東京に帰る最終日に、三浦さん宅に立ち寄った。 硫黄島の話を聞くため、数え切れないほど通った三浦さん宅。まるで実家に帰る感覚だ。仏間に飾られたモノクロの兵士の写真が、居間から見える。硫黄島で、38歳で戦死した三浦さんの父・末治さんだ。僕は遺影を見つめた。そして、おじゃまします、と挨拶した。ここまではいつもと同じだった。 この後、僕は大きな後悔を残すことになる。 僕は2020年8月から、ツイッターで実名のアカウントを開設し、硫黄島に関する発信を続けていた。硫黄島の歴史の風化に抗うため、何でも良いから毎日、硫黄島に関することをする。僕はそれを一日一善ならぬ「一日一硫黄島」と呼んでいた。 ツイッターは、その一環で始めた。11月12日には、例の「三浦さんとマスク」にまつわる短文をツイートしていた。そのことを三浦さんに話すと、三浦さんは「ぜひ私も読みたいです。どうやったら、それを読めるようになりますか」と声を弾ませた。 そして、書斎にあった旧型のノートパソコンを僕の前に持ってきた。僕はツイッターの登録を代行しようと思い、電源を押したが、パソコンの処理速度は随分と遅かった。これは時間がかかるな、と思い「三浦さん、このパソコンでは無理かもしれないです」と話した。三浦さんは残念そうだった。悪いことをしたな、と思った。 その後、しばらく会話を交わして、三浦さん宅を出た。三浦さんはいつものようにマイカーで最寄りのJR恵庭駅まで送ってくれた。そして、僕は師走の東京に戻った。新千歳空港行きの快速列車も、羽田行きの旅客機も、乗客席はがらがらだった。 その3ヵ月後、三浦さんとの永遠の別れの日が来るとは、僕は夢にも思っていなかった。