40年前の渋谷はどこか「牧歌的」だった。当時のアナログ写真から読み解く、渋谷の地位を圧倒的に向上させた“ある戦争”
■昔から東急の“おひざ元” それ以前から、渋谷は東急電鉄の東横線、玉電(玉川電気鉄道、後に田園都市線にその役割を引き継ぐ)の主要ターミナルであり、東急が本社を構える街だった。 東急には、東急文化会館というプラネタリウムやロードショー映画館のある文化・商業施設や、東急東横店など百貨店事業を展開してきたという歴史もあり、オリンピック後の1967年11月には、坂上の高級住宅地である松濤に近い場所に東急百貨店本店も開店している。
その翌年の1968年4月、駅前のハチ公口やスクランブル交差点近くに西武百貨店渋谷店が開店。それはまるで、当時は池袋にしか店舗がなかった西武百貨店が、東急の本拠地である渋谷に殴り込みをかけてきたような出来事だった。 そもそも渋谷は、東急沿線の目黒区、世田谷区や、周辺の松濤、南平台、青山などの高級住宅地を後背地に持っていた商業地。西武百貨店としても、それまでの池袋店だけという状況から、新たな顧客を開拓する土地として有望と見込んだはずだ。
■過熱する東急vs.西武 その後の73年には、駅前から渋谷区役所に至る坂上に、西武系のファッションビル「PARCO」が開店。75年にはPARCO PART2、81年にPART3と店舗を増やし、周辺の道路や路地には公園通り、スペイン坂、サンドイッチ通りなどの小洒落た名前が付けられ、そこは若者たちが回遊するショッピングロードとなった。 そうした状況に対して東急が手をこまねいていたわけはなく、1978年にはパルコ近くに「東急ハンズ」を、そして、道玄坂と東急本店通りの分岐点という街の中心の目立つ場所にファッションビル“109“を開店。その後も109-2やONE-OH-NINE、そしてONE-OH-NINE30’sを展開するなど猛攻をかけていった。
対する渋谷西武には、趣味と雑貨の専門店である「LOFT」(1987)、ファッションのセレクトショップの入るSEED館(1986)を開店。 この時期の西武セゾングループは、文化人経営者である堤清二による新たなライフスタイル提案型の店舗やブランドを次々に打ち出し、音楽の専門店である「WAVE」や「無印良品」など、若者や消費者の心を捉える店を次々と登場させていた。 一方で東急は、1989年に東急本店に隣接する場所に音楽ホールや劇場、美術館、映画館などを擁する複合文化施設『Bunkamura』をオープン。これは、セゾン以前から、沿線や本拠地渋谷で文化事業を手掛けていた東急が面目躍如をかけたプロジェクトだった。